<<第十六師団(垣兵団)略歴>>
明治三十八年(1905年)七月十八日、日露戦争による本土防衛師団として京都で編成。大陸に渡るが、敵と交戦する前に終戦を迎えた。
明治四十年(1907年)三月二十八日、師団司令部は大阪府泉北郡高石村に移転。翌年十月三十日、師団司令部が京都府紀伊郡深草村へ移転。
昭和十二年(1937年)、第2次上海事変で、北支の第十六師団は上海派遣軍に組み込まれ、揚子江上流の白卯江(はくぼうこう)に上陸。
昭和十三年、大本営は5月29日に武漢作戦を決定6月15日には御前会議で決定し、18日には大陸命第119号が下された。第2軍隷下で第3、第10、第13師団と共に作戦に参加。
昭和十六年九月、京都にて編成。同年11月24日大阪港を出発、同年12月24日、ルソン島上陸、マニラ攻略戦バタアン攻略戦を経てルソン各地に駐屯。
昭和十九年四月、南方総軍のルソン島進駐に伴い兵団は警備区域を変更、レイテ島へ転戦。同年4月中旬、司令部をタクロバンに移動。隷下部隊を島内要地に分散し警備にする。9月12日、米軍による第一回空襲以後、連続的に来襲主要軍事施設の大部分が爆破。10月20日、米軍ルソン島に上陸。同日、兵団は戦闘司令部をダガミ山麓に転戦し、11月初旬、糧秣輸送隊をレイテ島横断オルモツクに強行させる。同年12月6日、兵団長以下残員ブラウエン作戦参加。
昭和二十年三月中旬、残存者は附近山麓に入り、カンギボツト山周辺地区へ転戦。8月15日停戦。9月2日終戦後、米軍収容所に収容され、各個に復員。師団長の牧野四郎中将は1945年8月10日、レイテ島にて自決。
現在も聖母女学院本館として利用されている第 16 師団司令部庁舎に代表される建築物
群や、「師団街道」「第一軍道」などといった地名が、かつてここが「軍都」であったことを
今日に伝えています。
▽師団橋
昨年改修工事がなされましたが、橋桁に五芒星のマークが残っています。
▽橋の袂に残る欄干の一部
▽陸軍の要請で造られた石橋
京阪電鉄の真上を通っています。
▽第十六師団偕行社
現在、ヌヴェール愛徳会本部修道院となっています。男子禁制です。
▽高架下にある「紀元二千六百年記念碑」
▽聖母女学院大学付近の「陸軍」標柱
▽「騎兵第二十聯隊跡」
▽馬繋杭
▽土留
作家の水上勉は、昭和十九年四月、福井県大飯郡青郷国民学校高野分校に助教として赴任。同年五月、召集を受け、第二国民兵として中部第四十三部隊輜重輓馬隊教育班に入隊。七月に除隊となる。水上は、戦争末期の惨めな軍隊生活を『兵卒の鬣』で描いています。(以下、引用は 水上勉『兵卒の鬣』角川文庫から)
輜重兵第十六聯隊/ 輜重兵第五十三聯隊(中部第四十三部隊)
輜重兵第十六聯隊は、
中部第四十三部隊は、旧輜重兵第五十三聯隊のことで、昔から「墨染輜重隊」と呼ばれてきました。三個中隊編成で、一、二中隊は輓馬、三中隊は自動車隊でした。
▽当時の営門跡
▽師団街道から営門まで続く、カイヅカイブキの並木も当時のままです。
「ここは師団街道の真ん中あたりで、当時は輜重隊兵舎は道路に面しており、からたちのまばらに生えた土塀をもち、営門は三十メートルほど入った地点にあった。五日の朝、この営門前広場と師団街道は人でごったがえしていた。九時丁度に合図があって、私たちは営門を入った。うしろをふりむいたら、身重の妻が半泣きの顔をして旗を振っていた。チョボ髭を生やした父も、そのわきで、ペコリと一つ私に向けてお辞儀した。しかし、この二人の姿は、すぐに人渦に呑まれた。(...) 営門を入ると衛兵所の真向かいに膚の剥げた葉の無い赤松が三本植わっていて、そのわきに部隊本部、医務室、将校集会所があった。三百人近い召集兵の列に交じって、営庭を入っていくと、右側に三棟の焦茶色の板張り兵舎が建っていた。」(九頁)
現在の営門前広場と営門跡(Googleストリートビュー)
▽南門の門柱と立哨小屋
現在の南門付近(Googleストリートビュー)
▽「陸軍省所轄地」標柱
明治中期ごろのもの
▽不明な遺構
▽門柱
これらの遺構は、「第十六師団輜重隊の遺構を保存する会」の尽力によって保存されています。
▽「馬具庫」といわれているもの
「馬のいる厩は、馬糧庫の向かい側にあった。私たちの兵舎よりいくらか屋根が高くて、セメントたたきの台上に細長くのびていた。いま、その厩の屋根に、五月の陽があたって、橙色に光り、ぷーんと馬糞の匂いが風にのってくる。藁のハカマをとりのぞきながら、私は、輜重輸卒の一日がはじまったのを実感した。遠くでしきりと馬のいななきがきこえ、それにまじって、車のエンジンをふかす音、さらに、馬糧庫よこの蹄鉄工場から、トンテンカン、トンテンカンという鍛冶場の槌音がしていた。草履つくりという仕事が暢気でもあったせいで、軒下の陽だまりは、奇妙な安息を感じさせた。」(十八頁)
「
札の辻をこえた頃には先頭をゆく隊列から歌が起きた。馬上の見習士官が、蹄音いさましくもどってきて、
「軍歌つづけいッ」
とどなった。先頭からきこえてくる歌の同じ文句を私たちにも唄えというのであった。あとにつづく次の班兵も、またそのとおり唱和せよッ。愛馬進軍歌であった。
「昨日陥したトーチカで、今日は仮寝の高いびき、馬よぐっすり眠れたか、あすの戦はてごわいぞ」
私たちはあばれ馬にてこずりながら歌った。馬をひいて、馬の出てくる歌を唄ったのはこの日が最初だ。不思議なことだが、汗だくで馬を牽いていても、歌をうたえば、あるリズムがながれた。途中の道は、札の辻から深草への片側に人家のひしめくシャバであるだけに、二階の窓をあけて、しきりと手をたたく娘もいた。生まれてはじめて私たちは
現役兵になった気がした。」(八八頁)
伏見にある「軍人湯」
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