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京都大学戦争遺跡研究会(2017-)

 戦争遺跡研究会は、主に戦争の記憶を後世に継承するための活動に取り組んでいます。活動内容は、戦争体験者からの聞き取りや、「戦争遺跡」と呼ばれる明治~昭和までの戦争に関する遺構の調査研究などです。現在、各地の教育委員会や郷土史家、戦友会、有志の方々などのご協力を頂いて「戦争遺跡アーカイブ」を作成中です。本サイトでは我々の活動の一部を公開させて頂きます。ご質問ご意見はyuki0118(アットマーク)gmail.comまでお願いします。2016年以前の活動はこちら→http://senseki3.kyotolog.net/ ツイッター @sensenki3

第13期海軍飛行予備学生 田中修中尉

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第13期海軍飛行予備学生 田中修中尉


田中氏は滋賀県のご出身で、優秀なパイロットとして海軍のナンバー部隊(1023空、704空)で活躍されました。乗機は一式陸攻、九六式陸攻でした。京都霊山護国神社様主催の「第6回「京都で戦争体験者のお話を聞く会」にてお話を伺いました。護国神社さま、ありがとうございました。

田中氏は、戦後長らく戦争について語ることは控えてこられましたが、この度、「若い人たちのためなら」と、苦しい体験を語って頂きました。

▽田中修海軍中尉

任官記念に撮影されたものです。
 
<<軍歴(主なもの)>>(京都霊山護国神社資料より)
大正11年のお生まれ。昭和18年、同志社高等商業学校(同志社高商、現在の同志社大学商学部)在学中に十三期海軍飛行予備学生に志願され、海軍に入隊されました。
昭和18年9月 三重海軍航空隊(三重県)、海軍入隊
昭和19年1月 谷田部海軍航空隊(茨城県)、搭乗員初歩訓練
昭和19年3月 鹿屋海軍航空隊(鹿児島県)、九六式陸攻、一式陸攻の飛行訓練
昭和19年5月 豊橋海軍航空隊(愛知県)、編隊飛行訓練
     6月 海軍少尉任官
昭和19年7月 第三航空艦隊木更津海軍航空隊(千葉県)七〇四航空隊の一式陸攻機長として
        日本内外への海軍の人員輸送任務に従事。このとき、本土硫黄島間も何度も往
        復。任務中、敵戦闘機との遭遇も多数。 
昭和20年4月 三沢海軍航空隊(青森県)に移動。
     5月 海軍中尉任官
          剣号作戦(けんごうさくせん、剣作戦、けんさくせん、サイパンへの特攻)
          の第1剣作戦部隊(指揮官:山岡大二少佐)の一式陸攻機長として、演習に参
          加。8月15日の終戦で8月19日の出撃日を迎えることはなかった。

<<海軍予備学生へ>>
   
 昭和十六年十二月八日、同志社高等商業学校時代、皆がさあ戦争へ征こうと盛り上がった。陸軍の特操と悩んだが、海軍に行くことにする。予備学生を受験する際、父が反対したが、父の兄にあたる人物から「人間皆死ぬんだから、本人がいいというならええやないか」と説得してくれた。私はもう帰ってこないものと思われていた。
 昭和十八年九月、同志社高商を繰り上げ卒業。昭和十九年一月から三月までの二か月間、谷田部空で基礎訓練。赤とんぼに乗る。たった三日間で単独飛行に。
 昭和十九年三月から鹿屋基地に配属。五月から豊橋へ。七月には木更津に移り卒業。通常より二か月早い卒業だった。それだけ戦局が逼迫していたのか。操縦学生(1200名)と偵察学生(2760名)の合わせて4700名が卒業。

▽飛行服に身を包んだ田中氏


<<第三航空艦隊での輸送任務>>

 木更津の第三航空艦隊では、陸海軍の将校(中尉以上)を全国各地へ輸送する任務に従事。少尉以下の士官は潜水艦が輸送していた。一週間に一回の頻度だった。最初の三回は特務士官が案内して指導。二回目の輸送のことだったが、母島付近で敵機が側面から攻撃してきた。その時は母島の800メートルの滑走路に突っ込んで逃げ切った。この頃は、まだアメリカ軍にレーダーが完備されていなかったように思う。海面すれすれに飛ぶと敵機を回避できた。後ろから撃たれた穴が機体に残っていて、直径一センチくらいの大きさだった。そんなことが二度三度あったか。或る時、十三期の連中が後から来て一番機に、私はその二番機に乗って硫黄島に向かった。小笠原諸島上空で、一番機左のエンジンから煙が出ているのに気付いた。こっちは必死にそれを伝えようとしているのに、向こうは呑ん気に飛んでいる。何とか危ういところで知らせることができたが、一番機は八丈島に胴体着陸。降りた瞬間にエンジンがごろんと転げ落ちた。私たちはそのまま単独で硫黄島に向かった。
 十九年秋に第一〇二三航空隊に改称。十二月まで木更津でこのような人員輸送任務に従事。30分ほど到着地で休憩してまた次の目的地へ向かうという任務。日本全国を飛び飛び。例えば、午前は木更津→香取→茂原、午後は茂原→谷田部→館山→木更津という感じ。厚木は管区が違うので行かなかった。用務飛行は楽しい。色々な飛行場に行ったが、中でも鹿屋は広い滑走路があって降りやすかった。宮崎海岸の松原沿いに飛んだことを思い出す。
 昭和二十年一月、敵が硫黄島に上陸。その後は外地へは行かず内地の輸送。鹿屋ー千歳間の輸送。この時は命令文書などの輸送を行った。通信は傍受される恐れがあるからだ。同志社からは私を含め5人がいって、3人戦死した。硫黄島への輸送任務の際にそのうちの一人の筒井君に遭遇。陸戦隊の士官をしていたが、気の毒だった。第一〇二三空は、硫黄島陥落後に解隊。その後、七〇四空に編入された。
 二月六日、索敵任務に出発する為、飛行機に乗り込んでエンジンをかけるも、エンジンが不完全燃焼。整備兵がきて飛行機を換え、さあ発進だとブレーキを話そうとした途端に整備兵が×印をつくって走ってきた。出撃中止になった。敵機の空襲だった。急いで防空壕に飛び込んだ。一番機の長野君が戦死。壕口から外を覗くと、整備兵たちが機銃掃射を受けていた。
 三月、敵が沖縄に上陸。菊水作戦が発動される。沖縄特攻では海軍二四〇〇名、陸軍二〇〇〇名、合計四四〇〇名の特攻隊員が戦死している。そのほとんどが沖縄に着く前に墜とされている。敵はレーダー照準で正確に狙ってくる。私たちもおかしいと感じていたが、どうにもできなかった。大西瀧治郎中将が終戦時に自決しているが、そのぐらいの責任はとってしかるべきだろう。


▽九六式陸上攻撃機


▽一式陸上攻撃機


<<必死の剣作戦>>

 昭和二十年四月、三沢基地に異動。この頃から愈々戦争が深刻なものに。この頃俄かに、サイパン殴り込み(剣作戦)の話が持ち上がる。七月十四日敵の空襲。完全な奇襲で、急いで防空壕に飛び込んだ。格納庫にあったものを含めて30機の飛行機が破壊された。この空襲の為、7月下旬決行予定だった作戦が八月に延期された。高松宮、小沢、寺岡両長官が来られて演習を見学された。飛行機がゆっくりと飛行場に着陸し、自転車を投げおろして、吸着爆弾を駐機してあるB29にくっつけるというものだった。この吸着爆弾が、くっついたりくっつかなかったりするものがあったりで、実施までに直すということになった。皆、これで成功間違いなしだ、などと言っていたが、とてもそんな上手くいかんと思っていた。

▽九九式破甲爆雷


 昭和二〇年八月六日、広島に原爆投下。九日に長崎に。第五航空艦隊。陸軍落下傘部隊の園田大尉(後の中曽根内閣の外務大臣)らと協力しながら昨年を練る。銀河でコマンド部隊をサイパンに送るというものだった。一式陸攻の航続距離は2850キロメートルだが、サイパンへは直行せずに迂回するので、燃料ギリギリの片道切符。最早到達できるかどうかすらも怪しいものだった。訓練ではゆっくりとブレーキを掛ける練習をしたが、実践では胴体着陸で搭乗員も飛び出すことになっていた。燃料のガソリンも不足。千歳基地にて訓練。ようするに玉砕。剣作戦を待つ心境、もう皆死んだという気持ち。7月には既に部隊で三十名の死者がでていた。このうち10名は事故死だ。後に続くぞという気持ちがあった。もちろん死にたくはないが、これが運命なのだと考えていた。海兵出(海軍兵学校出身者)は私たちと大分違っていた。海兵出から、私たち予備学生は娑婆っ気が多い、日本男児として死ぬ覚悟が出来ていない、とよく言われた。8/19に剣作戦を決行することが決まった。
 八月十五日、玉音放送。終戦の晩に十三期の士官35人が大広間に集まって、わいわい騒いで大爆笑の嵐。沈んだ空気が一変して明るいものに変わった。「俺は生きられるんだ」と感動。これで生を全うできる。もう一回人生を立て直そうという気になった。

<<田中氏への質問>>

Q:どのような気持ちで志願されたのですか。
A:本土防衛の為。戦争に負けたら家族が路頭に迷ってしまう。

Q:兵科予備と飛行予備がありますが、何故飛行科に。
A:皆飛行科にはいれるわけではない。適性の無い人は兵科にいく。

Q:九六式陸攻と一式陸攻の乗り心地は。ちがいは。
A:一式は爆音がエンジンの爆音が大きい。一式は爆撃、偵察、雷撃となんでもできる万能機だ。九六式は胴体が細い。内地の連絡は主に九六式で行っていた。この機体は扱いやすく、性能も良い。九六式の方がよかった。沖縄特攻の時期もずっと九六式に乗っていた。昭和二〇年、上手に乗る者はいないかと言われて、上官が田中を推薦してくれた。恐らくこの時に推薦されていなかったら、特攻に回されていた。

Q:機内の連絡はどのように行っていたのでしょうか。
A:近くで大声で叫ぶ。

Q:8人の搭乗員ペアは同じだったのですか。
A:全部同じペアだった。整備1、通信1、射撃1、偵察1、操縦4という内訳。

Q:航空機の操縦において最も重要なことは何ですか。
A:高度。高度が一番大事。最近は何でもコンピューターだが、必ず計器をチェックして、目視で確認しなければいけない。

Q:敵機に発見された時はどう対処されたのですか。
A:こっちの方から機首を向けて突っ込んでいって、海上100メートルくらいをすべらして逃げた。

Q:電探対策について
A:機種に電波妨害装置がついている。操縦には特に差支えがない。或いは銀紙をばらまいて違う方へ逃げるということをやっていた。

Q:死ぬことについて
A:人間は死を決意すると、考えぬようにしようという気になる。考えても仕方ないからだ。死ぬという日の朝はまだゆとりがあるが、晩頃になると不安になってきて、服を着替えたりなどする。戦争を生き残ったことで、生きているということの大切さを実感した。死ぬというのは困難であり、かつ尊いことだが、またそれは責任回避でもある。後に残されたものはどうなるのか。若い方ですぐに「死にたい、死にたい」と言う人がいるが、生きられるのは貴重なことだ。特に若い高校生にはこのことを伝えたい。死んでしまえばどうにもならない。

Q:もし戦争がなかったとしたらどのような道を歩んでいたと思われますか。
A:商学部ですから、会計士か税理士あたりでしょう。

Q:昔から続けておられることはなんですか。
A:海軍時代に培った、最後までやり通すという姿勢。

▽田中修氏御近影

とても紳士的な御方でした。

田中修様、並びに主催者の京都霊山護国神社様、どうもありがとうございました。
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