佐世保に軍港が設置されるとともに、軍港を防衛するための砲台が付近一帯に造成されました。俵ヶ浦地区には、丸出山、小首、高後崎に実戦砲台が、馬川に演習砲台が据えられました。これらの砲台は昭和十一年に廃止されました。
今回は、丸出山堡塁、小首堡塁、高後崎砲台を紹介します。
佐世保駅バスターミナルの7番乗り場から、俵ヶ浦行のバスに乗車し、「俵ヶ浦郵便局前」で下車しました。一日五本ぐらいしかバスが出ていないので注意してください。所要時間は40分くらいです。
※7~8月の夏休み期間中は、市バスは終点の俵ヶ浦まで行かず、白浜の方へいきますのでご注意ください。
▽俵ヶ浦トレイルの案内板
歩いて行かれる際は、熱中症にならぬように水分補給をこまめにしてください。
半島にはどこにも水場がないので、郵便局付近の自販機でお茶など買っておくとよいでしょう。
俵ヶ浦バス停よりスタートします。
▽俵ヶ浦集落
長閑なところです。
▽「陸五四」標柱
▽山中に組まれた石垣
▽このような案内板があるので、先ず道には迷わないと思います。
新たに観光用に整備された道の途中から、かつて兵員が上り下りしたつづら折りの道が続いています。
▽「陸八三」
▽今でも通ることが出来ます。
▽「陸二二」
他にも標柱がたくさん残っていました。
道を上がっていくと、兵舎が建っていたと思われる地区に到着しました。
▽水槽
更にそこから登ると観測所に辿り着きます。
丸出山堡塁
▽観測所
▽内部の様子
この箱は当時もの?
▽階段をのぼると
▽観測所があります
▽九十九島の眺め
▽装甲観測所
めずらしい鉄製の装甲が残っています。
▽下から見上げた図
▽榴弾砲座砲側庫
二十八糎榴弾砲四門が据えてありました。
▽当時の給水井戸
まだ現役です
▽「陸二」
▽砲座入口
二十四糎加農砲四門が設置されていました。
小首堡塁
▽小首堡塁の入口
▽木造建物の瓦でしょうか
▽砲座
▽「三十六」
他の標柱よりも古い時期のモノのようです。明治30年頃か。
高後崎砲台
▽高後崎砲台
この砲台には9cm速射砲四門が据えられていました。
▽奥に海上保安庁の建物が見えます。
▽揚陸用突堤
▽海沿いを歩いて、集落まで戻ってきました。
この他にも、俵ヶ浦には煉瓦造りの弾薬庫や地下弾薬庫、馬川演習砲台、小首地区司令部などありますが、また次回に探索したいと思います。
地元の方に当時のお話を伺いました。
<<A氏の証言>> 昭和四年生まれ 女性
昭和十二年に学校に入った。「欲しがりません勝つまでは」という気持ちで頑張った。 藁草履で登校し、学校の行き帰りでは鉄くずを探して拾っていた。とにかく食料がないので、食糧増産に頑張った。キャベツ、馬鈴薯、唐芋、麦、大根を供出した。学校ではモールス信号を習った。今でも全部覚えている。
昔の軍人はひどかったとよー。恐ろしかったとよー。軍服を着て刀を吊って、国防色の軍服を着ていた。村の皆は最敬礼した。将校とふつうの兵隊では服の生地が大分違っていた。砲台には一年に一回、大勢の兵隊が来ていた。山の下から大砲を引っ張って山頂に上げていた。隊長らしき人が号令をかけてソレーと引っ張っていた。小首には弾がいっぱいあった。山の中腹には社宅みたいなのがあって、兵隊さんの家族が住んでいた。今は葡萄畑になっている。
佐世保空襲の時、砲台には誰もいなかったと思う。兵隊さんが何人かお寺で防空壕を掘って、釜で野菜のスープみたいなのを作っていたのを見た。佐世保の町の方は、夜も真っ赤になっていた。次から次に飛行機が飛んできて爆弾を落としていた。子供が市内の女学校にいっている親たちが「うちの子はどがんしとるか。」と心配していた。小学校の近くの田んぼに爆弾が落ちた。B29が帰り際に捨てていったものだと言っていた。
戦後も碌にものがない。進駐軍が来て恐ろしかった。パンパンが村に部屋を借りて住んでいた。本当に40歳頃まで苦労のし通しだった。今でも畑をして野菜を作っている。
<<B氏の証言>> 昭和十二年 女性
戦争末期には、砲台の兵隊が家まで来て「おこげなかですか。芋なかですか。」といって食べ物を乞いにきていた。母は哀れに思い、団子などを作ってあげていた。家の裏に干していた干物などがよくなくなっていていたが、恐らく砲台の兵隊が飢えて盗んでいたようだ。鹿児島の兵隊が多かったが、16歳の若い兵隊もいた。下の階級の兵隊はしょっちゅう殴られていて、村の方まで「オラーッ!!!」という怒号やビシッビシッという何かを叩く音が聞こえてきて怖かった。或る時、お寺に行くと、古参兵が初年兵を整列され、一人ずつ蘇鉄の木に手をつかせて、杉の棍棒みたいなものでバシバシとぶっ倒れるまで叩いていた。失神したら、水をかけ、また叩いたり、殴ったりしていた。見ていられなかった。ひどかったとよ。うちの兄は病気で兵隊ではなく、徴用工に行っていた。兵隊を出していない家は大変惨めな思いをした。
長崎に原爆が落ちたとき、兄が長崎で徴用工をやっていたので、原爆症にかかった。村から一緒に行っていた仲間が大やけどを負って、「頑張れ。頑張れ。」と励ましながら、列車を乗り継いで、兄が背負って帰ってきた。座敷に寝かされて、皆が集まってきたが、その仲間の人は真っ黒の黒んぼに焼けていた。まるで炭だった。水をのませてやると、ハーと息を吐いてシューと言う感じでまもなく亡くなった。村の人は二人亡くなった。
進駐軍がきて何をされるか、とみんな怖がっていた。が、みんなとても優しく、進駐軍の兵隊にコーヒーを飲ませてもらったが、この時初めてコーヒーを飲んだ。他にもバトミントンをしたり、チョコレートを貰ったりした。
お寺にある蘇鉄の木
初年兵の慟哭が聞こえてきそうです。
ご協力ありがとうございました。