明治初期に人口僅か四千人足らずであった小村は、明治二十二(1889)年の日本海軍佐世保鎮守府の開庁によって、東洋でも有数の軍港へと発展していきました。造船所や工場施設、鉄道、道路、水道施設、軍関連施設などは、鎮守府開庁より百余年を経た今でも多数残っています。
戦後より進駐してきた米軍に占拠され、アメリカ文化のスパイスを加えられた結果、佐世保(或いはSASEBO)の町は非常にユニークな様相を呈しています。
▽停泊する巡洋艦
軍需部倉庫
市街地から軍需部のあった干尽公園に向かいます。
▽干尽公園
▽海軍用地標柱
▽斜面に残るコンクリート基礎
▽公園上部の機銃座跡
▽地下壕の通気口
▽壕口は塞がれています
▽前畑弾薬庫
ここには火薬類が保管されていました。現在は米軍が使用しています。
▽軍需部火工工場の一部
民間の倉庫として利用されています。
▽工員宿舎跡
干尽地区には大正~昭和十年代にかけて建てられた倉庫が九棟現存しています。魚雷や機雷、砲弾類が保管されていました。前畑と干尽の間には火工工場があったようです。
▽軍需部第四炸裂弾丸庫
大正6年完成。煉瓦造り。
▽巨大な倉庫が二棟並んでいます。
奥の倉庫は弾丸庫です。鉄骨鉱滓煉瓦造り。昭和九年完成。
▽こちらは昭和13~16年に建てられた木造倉庫群
左から、第二炸填機雷庫、電纜(ケーブル)庫、第三炸填機雷庫、通信兵器倉庫
いずれも西九州倉庫(株)さんに使用されています。
▽一際威容を誇る第五水雷庫
▽鉄骨コンクリート及び石造の二階建て
▽倉庫内を撮影させて頂きました
丁度清掃作業をされているところでした。
▽消火栓
▽兵器手入場
昭和九年完工。
▽発電室跡
▽防空壕
▽兵器倉庫
昭和六年完工。
佐世保市外に戻ります。
途中で煉瓦造りの塀を見つけました。
▽重厚な煉瓦塀
地元の方の話では、警備隊の宿舎跡だということです。
▽佐世保市の空襲資料館
土日しか空いていませんでした。また出直します。
▽この壁に空襲時の弾痕が残っているらしいのですが
ちょっと確認できませんでした。
佐世保鎮守府
▽鎮守府正門
▽短艇を吊っていたダビットの跡でしょうか。
▽佐世保鎮守府庁舎
戦後、米海軍に接収されました。
次は戸尾地区に向かいます。ここには戦時中に掘られた防空壕が今も活用されいる様を見ることが出来ます。
戸尾市場
▽通称「とんねる横丁」です
▽一度行って見たかったのですが、残念。
▽港町というだけあって練り物の店が多い
▽「防空壕店」というパワーワード
佐世保海兵団
現在のニミッツパークは、かつての佐世保会兵団でした。遺構はほとんど残っていませんが、海兵団記念碑などが残されています。
▽佐世保川
▽土塁と土留が残っています。
▽これは防空壕あとでしょうか。
▽便槽跡
▽こちらも防空壕跡
▽「防火栓」
▽こちらは煉瓦造りの倉庫
▽佐世保海兵団記念碑
敷地の隅にあるので、ほとんど誰も訪れていません。何故こんなところに。
▽この倉庫が唯一の遺構になるのでしょうか。
▽消火栓
海兵団敷地を探索しましたが、これ以外の遺構は見つかりませんでした。
もし何かご存じの方がおられれば、教えて頂けますと幸いです。
▽海軍橋
▽将校集会所跡
現在は立体駐車場です。
佐世保鎮守府凱旋記念館
▽鎮守府凱旋記念館
市民の文化ホールとして使用されています。
▽水交社より撮影
▽境界石(?)
字は読めません。
水光社
▽自衛隊の資料館が併設された水交社
▽砲弾
▽工廠跡地から出土した礼砲
▽この階段を昇って士官たちが集まってきたのでしょうか。
次に続きます。