西海市面高郷、及び横瀬郷一帯には明治期の沿岸砲台や昭和期の防空砲台が点在しています。
寄船鼻と高後崎に挟まれたこの地は、佐世保湾口に位置する要衝であった為、第二次世界大戦中、米軍機の執拗な空襲と機雷の投下にみまわれました。
▽西海市寄船鼻付近之図
石原岳堡塁
明治三十二年に竣工。克式十糎半速射加農砲及び、斯加式十二糎速射加農砲(四門)が配備されていました。
現在跡地は石原岳森林公園として整備されています。緑地公園化されていますが、当時の姿をよく留めています。
▽石原岳堡塁の棲息部
家族連れがキャンプを楽しんだり、地域の方がラジオ体操を行ったりしています。
地元の方が定期的に草刈りなどをしてきれいにしています。
▽門柱
▽側溝もそのまま残されています。
▽土塁に囲まれた林道を進んでいくと
▽構造物があります。
▽中は蝙蝠の巣窟になっています。
▽砲側庫
▽砲座跡
▽砲側庫内部
▽棲息部
▽トンネル状の遺構
▽かなり深くまで続いています
▽どん突きの所で二股に分かれています
▽内部の様子
ブレブレですみません…
両側はこのようなかまぼこ型の部屋になっています。
▽砲座の下にある棲息部
▽いずれの部屋も繋がっています。
▽これは給水井戸です。
面高堡塁
ここからさらに岬の方に進むと、放棄された豚舎の廃墟があります。そこから登っていきます。
※現在使用されている中村産業様の豚舎には絶対に立ち入らないでください。外部から病原菌などが持ち込まれることで豚舎に伝染病が蔓延することもあります。また、豚は繊細な生き物ですから、バイクなどの大きな音の出るもので敷地の近くを走り回ったりすることもご遠慮下さい。探索される方は、何卒上記の事項に御留意願います。
明治三十三年八月に竣工。二十八珊米榴弾砲(二十八糎榴弾砲)が配備されていました。
かつては農家の方が農機具庫などに利用していたため道が整備されていましたが、現在は誰も立ち入らなくなり、草が生い茂り、またマムシ等が大量に出没するので、十分にご注意ください。
▽元豚舎敷地に残る門柱
▽煉瓦の基礎部
▽面高砲台砲座
ここに二十八糎砲が据えられていたのでしょうか。
▽砲側庫より階段が伸びています。
▽階段を上ると観測所に出ます。
▽こちらも砲座です。
▽弾薬庫
▽ここにも砲座が
▽連結した部屋が続きます。棲息部でしょうか。
▽これは高さを示しているのでしょうか。
かなり広いので、とても全て周りきれませんでした。
面高高射砲台
中村産業さんの畜舎最西端部には、かつての高射砲陣地の跡が残っています。
後述の琴平神社の砲台に関連するものと思われます。
お忙しい中でしたが、ご案内頂きました。
夏場は藪に覆われており、とても侵入できません。
▽コンクリート構造物
▽円形をしています
中村産業様、ご協力ありがとうございました。
琴平神社防空砲台
横瀬郷集落を見下ろす丘の上に琴平神社があります。
戦時中ここには防空砲台が設置され、二十五粍機銃三基が据えられていました。
▽琴平神社社殿
地元の方が定期的に草刈りをしているので、綺麗に手入れされています。
▽敷地内にある「海軍用地」標柱
▽高射砲台
▽高射砲台2
▽コンクリートの台座
電探の台座かもしれません。
少し下ったところには防空壕が残っています。
▽通気口
▽通気口2
▽高射砲台3
▽大きなコンクリート製の砲側庫
▽この林を抜けると
▽高後崎が見えます
▽円形のコンクリート台座
聴音器が据えられていたのでしょうか。
▽三角点
この後、下の集落まで降りて村の方々に当時の話を伺いました。
<<A氏の証言>>昭和十二年生まれ 男性 瀬川村国民学校横瀬分校
戦後の記憶になるが、面高砲台でよく遊んだが、とてもきれいな建物だった。大砲が残っていたが、朝鮮戦争の時に業者が来て持って行ってしまった。琴平神社には三基の機銃が残っていて、乗ってハンドルを回すとぐるぐる回って面白かった。皆で敵機を撃墜する遊びをやった。他に「チョンキ」(聴音器?)というのもあったと思う。昭和二十年頃には、集落の上の方には兵舎が建って、海軍の兵隊が二百人以上いた。父親が炊事場で働いていた。今は当時の面影はない。
<<B氏の証言>> 昭和十四年生まれ 男性 瀬川村国民学校横瀬分校
戦争末期の頃、日本の空母が湾内に入ってきて、空襲から隠れていた。新兵の水練場が近くにあって、海兵団がたくさんきて泳いでいた。昭和二十年の三月頃だったと思うが、友達みんなで泳いでいたら、艦載機が機銃掃射してきて急いで船の陰にかくれた。海面に機銃弾が当たって、「ジュ―、ジュー」という音がしていた。空をみるとぞろぞろ敵機が低空でやってきた。浜辺の防空壕から、皆が「入れ!入れ!」と叫んでいたので、敵機が遠ざかったうちに一目散に防空壕に飛び込んだ。高射砲が「ポンポン」とまばらに撃ちこんでいた。高射砲は全然当たってなかった。
▽佐世保軍港に入っていく巡洋艦
「今の船と昔の船とはだいぶ違うなあ」とおっしゃっておられました。
<<C氏の証言>> 昭和八年生まれ 男性 瀬川村国民学校横瀬分校
村の女の人達が竹やり訓練をやっていた。徴兵帰りの者が指導していた。面高砲台には皇族が視察にきて、兵隊が道の掃除をしていた。琴平神社の防空砲台では演習をやっていて、練習機の後ろに吹き流しをつけて、それを撃っていた。この地は佐世保軍港の入り口にあたるが、大和が通過するときには、煙幕をはっていて真っ白で何も見えなかった。その時は周囲に焦げたような匂いが漂っていた。軍艦はよく通っていたが、この村の者は誰も大和を見ていない。当時は食べ物もひどく、「かんころ飯」という、芋と麦の飯だった。イワシなどは良く釣れたので良く食べた。皆靴など履いておらず、草履か裸足だった。
佐世保空襲の日は確か夜間だったが、村中の者の半分が面高砲台に、もう半分が石原岳砲台に逃げた。その時、妹が井戸に落ちて亡くなった。何せ暗い中だったので、足元が見えなかったのだと思う。あんなに小さな子が本当に不憫だ。
長崎の原爆投下では村から徴用工で行っていた人が亡くなった。
戦後、アメリカの戦艦ミズーリ号が入ってきた。ニュージャージーも来ていた。かっこよかった。すごかった。進駐軍が港にも上陸してきた。丸木舟を漕いでチョコレートなどをもらいにいったこともあった。船の上からポーンと投げてくれた。海岸の岸壁がその時はコールタールで真っ黒に塗られていた。
▽石原岳堡塁の給水井戸
合掌。
皆様、ご協力ありがとうございました。