「木都」と呼ばれる秋田県能代市は白神山地の豊富な杉材を切り出し、販売することで栄えてきました。戦時中、能代にある秋田木材や松下造船などの企業に対して軍需動員がなされ、それらの企業は木造船や航空機部品を製造していました。
米代川を北に渡った向能代一帯には東雲飛行場(後に陸軍能代飛行場)があり、温存飛行場として東北随一の規模にまで整備拡張され、戦争末期には特攻隊員の訓練が行われました。
軍需工場と航空基地という重要目標を有しながら、幸いにも能代市は空襲を免れましたが、戦後の二度にわたる大火によって市内の貴重な建築物の大半が失われています。
近年、戦争遺跡についての関心も高まり、現地では見学会や勉強会などが開催されています。
▼八幡神社境内の慰霊碑
陸軍能代飛行場
今回の能代飛行場探索にあたっては、郷土史家の小林喜兵氏に大いに助力頂きました。
誠にありがとございました。
<<能代飛行場沿革(小林氏の資料より)>>
一九二〇(大正九)年:能代飛行場の前進の東雲(しののめ)原で初飛行が行われる。
大正十三年:日本陸軍の練習機三機が飛来。
昭和十二年:東雲村が軍用飛行場用地を陸軍省に献納。東雲飛行場が誕生
昭和十五年八月:四少年遭難事件。練習機の不時着に巻き込まれ、七名の児童が死傷。
昭和二十年六月十三日:牧野少佐(陸士五十三期)以下七名が事故により殉死。
昭和二十年八月十五日:終戦。進駐軍に接収される。
▼能代飛行場内に残る弾薬庫(後述)
▼1948/05/16(昭23)の能代飛行場(USA-M1020-82)
五棟の格納庫のうち、一棟が残る。基地施設は能代農業高校の校舎として戦後しばらく利用されました。
▼現在(平成29)の能代飛行場周辺(google map)
当時を偲ばせるものはほとんど残っていません。僅かに弾薬庫と格納庫のコンクリート基礎などが残るのみです。
まずは、航空隊搭乗員の宿舎となった料亭の金勇を訪ねます。
▼旧料亭金勇
二度の大火でも奇跡的に焼けませんでした。能代に残る数少ない歴史的建造物のひとつです。
無料で見学が可能です。管理者の方に案内をしていただくこともできます。
▼東京の料亭を模して造られました。
▼下士官の宿泊していた広間。
九米の秋田杉の一枚板をみれば、当時の秋田木材の勢いを感じることができます。
金勇は戦争末期の昭和一九年に陸軍に接収され、各部屋には、大広間に搭乗員、中小広間に下士官、個室に士官という形で、主に空中勤務者が宿泊していました。
▼特徴的な格子模様。
こちらの金勇さん、既に廃業されていますが、事前に予約をすれば食事をすることが可能です。
http://www.kaneyu.jp/
金勇の歴史を詳しく教えて頂きました。誠にありがとうございました。
▼金勇の隣にある神社に、航空隊犠牲者の慰霊碑があります。
▼留魂碑
▼戊辰戦争の遺構です。
▼能代はバスケの町です。能代工業高校はバスケの強豪校として全国的に有名です。
▼老舗の御菓子店「桔梗屋」
創業四百年以上の歴史あるお菓子屋さんです。
銘菓「翁飴」は御茶うけに最高です。京都の茶会でも供されるのだとか。
次に飛行場施設に向かいます。
▼東能代駅から米代川を渡り、向能代方面へ。
第八師団の機動演習の際には、舟艇から川に落ちた兵士が何名も死亡するという凄惨な事故が起きています。
▼かつてはここに木橋が掛かっており、搭乗員は料亭金勇からここを渡って飛行場に通っていたようです。
▼西高校付近にある鳩小屋
鳩が可愛い
▼軍馬放牧場の土塁跡です。能代西高の西側に残ります。
▼御堂があります。
この像を作った人物は自身に似せてコンクリート像を作ったということです。
戦中も、ここを通る兵隊さんが手を合わせて拝んでいたとか。
▼お地蔵さまならぬ「お自蔵さま」か
▼かつて基地隊施設の立ち並んでいた能代西高校
▼飛行場正門跡地
最近、學校敷地の南側で標柱が発見されました。
▼「陸軍」標柱(小林氏提供資料より)
雪で現物は確認できませんでした。
▼滑走路西端
▼高校の敷地の東端に飛行場時代の弾薬庫が残ります
▼支援学校にあるコンクリートの構造物
遠くからしか見えませんでしたが、これは何でしょう。ただの遊具かも…
▼戦後、飛行場の敷地は払い下げられ、開拓者が入植しました。
もの凄い地吹雪です。
▼開拓民の苦労が偲ばれます。
痩せた土壌と冬の寒さのために開拓は困難を極め、多くの犠牲者をだしたようです。
▼牧野司令以下の殉死者を供養した延命寺
昭和二〇年六月十三日、練習機が指揮所に墜落し、七名の死者がでました。
この延命寺において慰霊祭が行われています。
▼東雲飛行場慰霊碑
▼落合に残る土製掩体
▼きれいに残っています。
唯一ここにだけ残っています。
▼廃墟が
向能代駅付近の踏切です。
▼かつてこの地が飛行場であったことが分かります。
地名として残る戦争遺跡。これはある種の無形戦争遺跡でしょう。
▼四少年遭難の地
落合中大野遺跡付近に訓練中の練習機が不時着し、二名の搭乗員は無事でしたが、7人の児童が巻き込まれ、そのうち4人が死亡しました。当時は箝口令が敷かれ、遺族に補償すらありませんでした。
小林氏によれば、この他にも朴瀬日影地区に燃料貯蔵壕、竹生の三角兵舎跡、真壁地の防空監視哨、機銃陣地など、多くの遺構が残っているということです。
その他、未確認ですが、google mapや年配の方の証言では、格納庫跡のコンクリート基礎や火薬庫跡の土塁などが残されているようです。
秋木機械株式会社
秋木機械株式会社は戦時中に航空機の脚部やプロペラを製造していました。当時の工場の一部が現存しています。
▼秋木機械製の木製プロペラ
実物は井坂記念館に展示されています。
井坂記念館
資料によれば、秋木機械の工員には徴兵猶予が適用されていたようです。
航空機増産における重要な役割を担っていたことが分かります。
▼秋木製鋼株式会社さま(旧秋木機械株式会社)
▼当時の建物
貴重な木材を使って建てられただけあって、非常に堅牢で、現在も問題なく使用されています。
これだけ歴史のある工場建屋は珍しく、学術的にも貴重なものであると言えます。
詳細は後日「戦跡アーカイブ」にて。
秋木製鋼さま、誠にありがとうございました。
松下造船株式会社
松下造船は、米代川の南岸に工場を設け、木造船を建造していました。現在跡地は花火会場になっています。
▼松下造船跡地
何にも残っていません。数年前までは煉瓦造りの倉庫があったようですが。
ご協力いただきました皆様誠にありがとうございました。
1. 驚きました
能代飛行場跡は私も一度行ったことがありますが、
この記事で初めて知った遺構もあり、大変勉強になりました。
最近は県南の美郷中学校が六郷飛行場について調べているようで、
その取り組みが新聞にも掲載されていました。
調査の成果は学校ホームページで公開しているようなので、
よろしければご覧ください。
http://www.obako.or.jp/misatojh/study.html#socialstudies