第十九突撃隊は昭和二十年に編成された部隊で、海竜や震洋で上陸する敵艦船に体当たり攻撃を行うことが任務でした。司令部は渡鹿野島におかれ、金津浦、阿瀬浦、鳥居崎、などに基地が造られました。
阿瀬浦基地
震洋隊の置かれた阿瀬浦基地には、震洋格納壕が一基残存しています。
▼阿瀬浦港
▼壕の崩落した跡です。
山の斜面には他にも壕の崩落した跡がみられます。全て素掘りの壕だったようです。
▼侵入が可能な震洋格納壕です
▼内部の様子
入ろうとしたのですが土砂が入り込んでおり、腰までしか入りませんでした。小柄な人なら入れるかもしれません。
▼この壕の隣にも壕があったようですが、山を削ったので消滅しました。
合計で4つの壕がならんでいたようです。
<<K氏の証言>> 昭和三年生まれ 女性
大東亜戦争開戦時、私は「小国民」だったので、万歳万歳と喜んだ。父は日露戦争に従軍しており、杉野兵曹などの歌を学校でも歌った。乃木大将は明治天皇の崩御の時に殉死して、偉い人がおるもんだなあ、と思った。戦局が進んでいくと、生活物資が配給になり、米は家族八人に一か月で五升しか配給されなかった。なので、大方芋や南瓜の煮たものばかり食べた。たんめんがきに豆がすの食事。
昭和一九年初めから一年ほど名古屋の工芸女学校へ通い、裁縫などを習う。名古屋では食料が不足して困った。一九年十二月七日の南海地震にも遭遇した。母が病院に入院しており、看病するためにこちらの方に帰省していた。地震がゆった時、敵襲かと思った。壁がバタバタと落ちて、看護婦などは患者などほっぽって、皆わーっと外の運動場に逃げ出してしまった。他の患者の人が「おい、白い服が運動場で寝とるぞ。」と言ったので、外をみると、看護婦が集まって地面に伏せていた。丁度、二〇年三月の名古屋空襲にあって恐ろしい思いをした。運動場にジグザグに防空壕を掘ってその中に隠れて助かったが、もし直撃を喰らっていたら、ひとたまりもなかっただろう。二十年の初めごろに安乗に帰る。ここから出征する人は鳥羽行の巡航船に乗っていった。この岬の人も大勢二百人以上戦死されている。うちの兄も支那で戦死し、嫁ぎ先の家の長兄も沖縄で戦死した。
昭和二〇年頃に予科練が二百人から安乗に来て、分宿して作業。六人ほど家に泊まっていた。兵隊さんの年齢は私より少し上ぐらいの十代後半から二十代前半ぐらいだった。草色みたいな服に紺色の帽子を被っていて、帽子には桜に錨の帽章がついていた。朝から晩まで作業をして大変そうだった。兵隊さんとはあまり話す時間がなく、「いってらっしゃい」「おかえりなさい。えらかったでしょう。」の挨拶を交わすぐらいだった。ハンカチに海軍の桜に錨のマークを刺繍してあげたこともある。みんなで予科練の歌をよく歌っていた。村の者は予科練がきてくれて頼もしいと喜んでいた。長野県や群馬県など、東の方の人が多かったと思う。班長が厳しい人で、たしかその中では少尉が一番偉かったと思う。敵機が来たときには、お寺の鐘を叩いて敵機来襲を告げていた。私らも予科練の堀った壕に入れてもらった。
▼阿瀬浦の入江
敵機は十回ほど来て、低空で機銃を撃ち込んでくる。「バチバチバチッ」と音がしてとても怖い。墓場まで撃ちまくっていて、おばあさんが一人機銃掃射で横腹を撃たれて亡くなった。変形した機銃弾が落ちていて、みんなそれを見て「こわいなあ。」と言っていた。兵隊さんも木の陰などに隠れてやりすごしていた。米機の旋回する音は気味が悪かった。日本の飛行機はほとんど飛んでこないで、こちらはなんの反撃もしなかった。壕での作業は大変そうで、帰ってきた予科練の人の顔は、カンテラの煤で鼻の穴まで真っ黒になっていた。使っている削岩機などの道具も見せてくれた。スコップやダイナマイトもあった。時々、「ボーン」という発破の音が聞こえた。阿瀬で発破作業中に怪我をした人があり、二人がケガをして、一人は軽傷だったが、もう一人が重傷で、たしか目をやられていたと思う。食糧事情はあまりよくなく、この辺では薩摩芋がとれたので毎日そればかり。薩摩芋や南瓜を切干しにして兵隊さんにも分けた。爆破用のダイナマイトを齧っていた兵隊さんもいたようで、家に泊まっている方に「おいしいのですか。」と聞くと、「大変甘いそうだ。」と言っておられた。一度兵隊さんから軍隊の「せんび(乾麵棒?)」も頂いたことがあった。「ええ!いやいやそんなもん、とんでもないい!」と恐れ多くて断ったが、「いいから、いいから。」ということで一つもらって食べてみた。伊勢山田の方が空襲で燃えていたのを覚えている。ものすごい煙で太陽が見えなかった。忘れられない。串本などが艦砲射撃でやられているというのを聞いて、安乗の岬の方の人が阿瀬まで避難してきた。B29が五,六機の編隊で悠々と飛んでおり、「あれ撃ったれ、あれ撃ったれ。」と思っていた。
終戦後、予科練の人らが爆破用のダイナマイトなんかを海に捨てたので魚がたくさん浮いてきてみんなで拾いに行った。兵隊さんらはみんな気が抜けたような感じだったが、家に帰れるので喜んでいた。予科練の人らが末代まで縁を結びたいということで、この地に来て記念碑を建てたので私も協力した。恩給をもらっている人はそれだけの苦労をしている。ご苦労なことだ。
金津浦基地
かつて金津浦基地のあった辺りは、現在夏川原という地名になっており、大きな豪邸や別荘が立っています。お金があったらこういう風光明媚な土地に屋敷を構えてみたいものです。
親切な地元の方に基地への進入路などを教えて頂きました。どうもありがとうございました。『三重の戦争遺跡』を参考にしながら、東の方から遺構の状態を確認していきたいと思います。
▼金津浦基地
▼かつてはこの辺まで陸地だたようです。
▼一番東にある壕です。未完成。
▼H字状に掘られた壕。魚雷調整所として使用される予定だったようです。
両方とも崩落しています。
▼燃料庫として利用された壕。崩落。
▼魚雷格納庫として利用された壕。
この壕は進入できそうです。内部もかなり崩落しています。
▼最深部です。
▼こちらの壕も前方部分は崩落していますが、進入できます。
▼魚雷格納庫として利用された壕です。
▼輪切りにされた丸太にコールタール(?)が塗られたものです。
確証はありませんが、当時の地下工場などではこのような丸太を床に敷き詰めて、その上に機械や弾薬を置いたという話を聞いたことがあります。もしかしたらこれもその一部かもしれません。
▼最深部です。
▼山を貫通していた居住壕です。崩落しています。
▼糧食庫として利用された壕。
▼兵器庫として利用された壕です。未完成。
▼居住壕兼通路。崩落しています。
▼海竜の修理庫です。土砂で埋まっています。
▼こちらも整備壕です。崩落。
▼海竜格納壕です。
▼前面にL字状の土手があります。
▼こちらも格納壕跡
▼ウインチ室跡です。
▼格納壕跡です。たしかに分かりづらい。
▼廃坑。進入するところがあるようですが、みつかりませんでした。
▼完存する発電機室。
▼発電機室のあった場所に漁師小屋が立っています。
▼内部です。
▼本部の置かれた渡鹿野島です。リゾート地になっています。