弘前市は、弘前藩の城下町として栄えてきました。旧制弘前高等学校は、かの太宰治が学生時代を過ごしたことからも有名です。明治以降、軍都としても栄え、第八師団は先の日露戦争における「黒溝台会戦」での武功から、「国宝師団」という名称を与えられました。弘前市は奇跡的に空襲をうけなかったので、市内各所に戦前の建物が多く残っています。他にも道路幅などは戦前のままなので、歩道がとても狭いのが特徴です。ただ、江戸時代や明治時代の建物に比べ、昭和の軍隊関係の建物は文化財指定などが遅れているため、近年、貴重な建物が失われているのが現状です。僅かに長官官舎と偕行社が知られているにすぎません。ここではまだ現存している第八師団施設の一部を紹介しますが、ここに掲載しているものの他にも、まだまだたくさん残っています。詳細は「戦跡アーカイブ」に掲載します。
▼柴田高校に残る野砲兵第八聯隊兵舎
弘前第八師團司令部
▼現弘前大学の敷地内にあった師団司令部跡
車回しは
(画像)往時の第八師団司令部のままです。ロータリーの真ん中に植えられている木も当時のものでしょう。
▼大本営跡碑
第八師団ゆかりの品が旧図書館に残されています。
▼旧弘前市市立図書館
▼図書館内部には師団司令部で使われていた机と椅子が保存されています。
▼「弘前師團司令部」とあります。
▼こちらは隣にある外国人教師邸宅
第八師団司令長官舎
師団長官舎が保存されています。スターバックスの店舗として利用されています。保存されているのは外装のみで、内装は全く別物といってよいでしょう。
▼ここまで曳いてきたそうです。
▼近くにある藤田記念庭園内の洋館
地元の名士堀江佐吉の子孫が設計・施工したものです。
▼現在は喫茶店になっています。
弘前市内の洋風建築は見ごたえがあります。
第八師団兵器部・火薬庫
弘前城内には第八師団の兵器部と火薬庫がありました。
▼弘前城内の火薬庫付近
▼兵器部は現在植物園になっています。
▼門柱のみが残ります。
▼弘前城内の靑森縣護國神社
▼大演習「賜宴」碑
大正四年の特別大演習を紀念して建てられたものです。
(画像)演習中の第八師団(大正9年)
▼神社境内
▼城内の櫓
▼本丸
▼岩木山を望む
城外の西茂森地区には忠魂碑が建っています。
▼忠魂碑に通じる道。
両側に寺院が並んでいます。
▼忠魂碑
かなりの大きさです。戦後に破棄してしまおうという話がでましたが、仏舎利塔として残されました。
▽万里の長城を防衛する第八師団兵士(昭和八年三月十日)
騎兵第八聯隊
かつて、市街地から南の方には第八師団関係の施設が立ち並んでいました。
騎兵第八聯隊は日露戦争からシベリア出兵、大東亜戦争を戦った歴戦の部隊です。
現存する施設としては、営倉(?)と兵舎の一部が挙げられます。他にもあるかもしれませんが、今回の調査ではこの二つしか確認できませんでした。
▼騎兵第八聯隊(赤丸は現存するもの)
道沿いの比較的大きな施設は、平成二十八年八月に解体された覆馬場。
▼現在(2016.10)の騎兵第八聯隊跡地
解体中の覆馬場が写っています。
騎兵第八聯隊正門付近から南へ少し下ると、コープ松原店があります。かつてここは雨天時などに馬を走らせる覆馬場でした。昨年(2016.8)までは煉瓦造りの施設がのこっていましたが、解体されてしまいました。
▼工事中のコープ松原店
この建物は新設されたものです。
▼聯隊碑
いずれ移される予定です。
▼覆馬場の一部
建物が一部だけ残されています。モニュメントにでもするのでしょうか。
解隊前の覆馬場はこのような姿でした。夏でも冷房のいらない快適な建物だったようです。
払い下げられた軍事関連の施設の大半は、個人や民間の所有物となっており、その維持には大変な経費が必要ですから、このような文化財の保存には当然行政の補助が不可欠です。しかしながら、各地の自治体における戦争遺跡の保存維持に関わる活動にはかなりの温度差があると言えます。たとえば、広島では原爆で被爆した公衆便所を「被爆便所」として文化財指定をして、市が管理している一方で、ここでの場合のように次々に消滅している例もあります。
教育的、学術的な面からいえば、原則として「現物保存」というのが望ましいのですが、最悪の場合、移築したりすることも検討すべきだと思います。正直なところ、建物の一部などを残すというやり方はある種の博物学的な意味しか持たず、歴史を再現する、想起するという場合においては、現物に触れるほどには大した価値がないでしょう。例えば、原爆ドームを目の当たりにするのと、原爆資料館で産業奨励館の柱の一部や瓦礫片を見せられて、これが原爆の被害ですと言われるのとでは大変な違いがあるわけです。正に、その場所に、(なるべく)その時の姿のままであるということが重要なのです。
▼こちらは正門からすぐ北手にある建物
地元の方の証言などから考えると、営倉ではないかと考えられます。
▼外装は当時とは異なります。
▼こちらは青森銀行側から
住宅街の一角に木造の家屋が並んでいます。写真で確認するとどうやらこれも兵舎を住宅に転用したもののようです。
▼兵舎の一部だと思われます。
何棟か同じような建物がありますが、人が住んでいるようなので撮影は控えます。こちらはもう何年も無人だということです。近々取り壊されることになるかもしれないとの話です。
<<B氏の証言>> 昭和十年 樺太敷香(シシカ)町生れ
私は樺太中部の国境の町敷香で生まれた。父は鉄道員で、樺太鉄道に勤めていた。八月十五日の玉音放送を皆、握りこぶしで涙を流しながら聞いた。シシカの国境警備隊は原住民のオロッコ族だったが、皆終戦とともに逃げて行ってしまった。終戦前後だったと思うが、私が母親と最後の配給品を貰いに行った時のことだが、ソ連軍の戦闘機が、大挙して押し寄せ、配給所に向かう人の列に向かって機銃掃射をしてきた。町の配給所は原っぱの真ん中にあり、仕方なく私と母はその場に伏せて、敵機をやり過ごそうとしたが、それでも敵は執拗に弾を撃ち込んできて、それが超低空だったので、ゴーグルを掛けたパイロットの顔が間近に確認できるほどであった。今でも忘れられない。ようやく敵機が遠ざかったので、皆ちらほらと立ち上がって集まってきたが、一人うつぶせに倒れて動かない男性がいた。見ると、背中に小指ぐらいの小さな傷があって、血が滲んでいた。見ていた人が「おい、しっかりしろ。」と言って、その男の人を仰向けにしたら、顔から腹まで大穴が空いて血まみれで、はらわたが全部でていた。周りの人は、背中から入った弾が体の中で暴発したと言っていた。その時の配給所で死んだのはその人だけだった。残念なのは、逃げている時に母が父の給料袋を無くしたことだ。後々、無一文で苦労することになる。
我々はすぐに汽車で南の方に向かった。父が鉄道員であったので優先的に乗ることができた。父は残務処理でシシカに残ったので、母と私と弟だけが汽車に乗った。乗客は女子供に老人が多かった。汽車はごった返しており、足の踏み場もないほどであったが、駅に着くごとにどんどん乗客が増えていった。ある駅に着いたとき、「降りろー!!」と怒鳴る声が聞こえて、窓の外を見ると、日本の兵隊が乗客を何人も引きずりおろして乗り込んできた。更に乗ろうとする民間人を足蹴りにして乗り込んできた。彼らは武器を持っていたので、誰も文句を言えなかった。統制のない日本の兵隊など山賊と一緒だと思った。
八時間ほどかけて真岡に到着すると、避難民でごった返していた。連絡船も来ないので、皆途方に暮れている様子だった。八月とはいえ樺太は寒いので、着の身着のままで逃げてきた人は凍えていた。デマも飛び交っており、「函館に就くと荷物を没収される。余計なものは捨てろ。」と皆が言い合っていた。その為か3歳か4歳の子供が何人も道端などで寝ており、実際におにぎりを渡して親が子供を置き去りにしていくのを目撃した。年寄り達も同様で、大八車などに乗せられて車ごと崖から落とされるのを見た。本当に切羽詰っていたのだと思う。気の毒なのは朝鮮人で、日本に帰ることもできず、かといって朝鮮行きの船などもないので、樺太に留まらざるをえず、樺太の朝鮮人は大勢残留してソ連軍にひどい目に遭わされたそうだ。ようやく待ちにまった船が着いたが、すぐに満員になり、我々は乗ることができなかった。無理をすれば乗れたかもしれなかったが、母は「急がなくても次のにのりゃあええ。」と言って全然慌てていなかった。その夜は仕方なくトイレに筵を敷いて寝た(トイレには暖房が付いていたため)。朝明けると、昨夜の船は北海道沖で撃沈されたという情報が入ってきた。昨日の船に無理やり乗らなくてよかったと思った。後年、その船で死んだ人の慰霊碑を訪ねたことがあったが、慰霊碑には死者の名前が彫られていて、私たちもここに名前が彫られることになっていたかもしれない、と思うとぞっとした。幸い、その日のうちに日本の軍艦が来て、それには乗ることができた。しかしこれも避難民で満員だったため、船内はひどい有様だった。私が疲れた顔で座っていると、水兵さんが声を掛けてきて、乾パンをくれてハンモックにのせてくれた。母がしきりにお礼を言っていた。通路も人でいっぱいで、足の踏み場もなかったので皆イライラしており、赤ん坊が泣いていると、「うるさい、だまらせろ!!」と怒号が飛び交った。その母親は赤ちゃんを連れて甲板に出ていった。母親が帰って来たが、手には赤ちゃんを抱いていなかった。どうやら海に…。
我々は無事に本土に変えることが出来た。函館から船で青森に渡り、青森駅についた時、駅からつつみ橋まで見えた。所々に土蔵が立っている以外は全く焼野原だった。駅の傍で兵隊が駅舎の板を剥がしてたき火をしていた。母と私たちは父方の親戚を頼って岩木山麓の村に身をよせた。父親が帰ってくるまでの三年間は居候の身で辛かった。父は樺太鉄道の鉄道員であったため、侵攻してきたソ連軍に捕えられて、鉄道技術を指導するために残されたのだった。父の話では、樺太のソ連兵というのはシベリアなどいにいる囚人で、下着すら履いていないという。もちろんきちんとした教育など受けていないので、やりたい放題で、時計などの他、やたらに赤いものを欲しがったという。更には女を探しに来た時には、お婆さんに拳銃を突きつけて「ムスメ、ムスメ。」と催促するらしい。その娘さんは便槽に隠れて難を逃れたという。
そして父が帰ってきてからは、弘前の松原に土地を買って移り住んだ。現在の騎兵第八連隊の敷地は堀越の役場に払い下げられ、一坪二百円で買うことができた。建物などは木造のものは大半がバラされて焚き木になった。去年(2016)までは煉瓦造りの覆い馬場が残っていたが、壊してしまった。もったいないことをしたものだ。松原の地名の由来ともなった松並木は、戦後の台風で倒れたり、燃料にするために切り倒された。現在、一本だけ残っている。それも一番小さいやつだが。
唯一残る松の木は橋を南に渡った先にある。
野砲兵第八聯隊
現在の第三中学校、並びに柴田高等學校の敷地には野砲第八聯隊がありました。現在でも通用門と施設の一部が残っています。
▼昭和23年頃の野砲兵第八聯隊跡地
▼平成28年の野砲兵第八聯隊跡地
赤は現存するもので、黄色は近年滅失したものです。
▼野砲兵第八聯隊之跡碑文
▼中学校に残る通用門
▼付近の学習塾の基礎部分
煉瓦造りですから、もしかしたら軍隊関連のものかもしれません。
▼ブナコ株式会社の工場
こちらは現在も工場として利用されている聯隊の施設です。
▼一部改装されていますが、ほぼ原形を留めています。
▼同じ建物が南北に四棟並んでいました。最近までもう一棟残っていましたが、解体されてしまいました。
これがかつての陸軍時代の物であるということは、地元の方でも知らないようです。
次に柴田高等学校に残る兵舎跡です。高校の寮として利用されていましたが、現在でも部活動や学校行事で利用されています。
本来非公開の施設ですが、今回特別に許可を得て見学させて頂きました。
誠にありがとうございました。
▼一部が残る兵舎
長さは三分の一ほどになっています。
▼入口付近を振り返る。
▼左右には通路があります。部活動で使用されています。
▼正面の階段。兵員室に通じる。
▼二階部分
劣化を防ぐために塗装されています。
軍隊の兵営は映画などでは見たことがありましたが、実際に確認したのは初めてでした。建物に入った時に「内務班」という言葉が浮かびましたが、この建物は往時の雰囲気をよく留めているのではないでしょうか。やはり現物に触れるということは大きな意味をもっていると思います。本当にこのような貴重な文化財が良く残っていたものです。この学校の卒業生の方の話では、かつては建物はもっと長く、つまり一棟丸々完存していて、寮として利用されていたそうです。寮の規則は大変厳しく、日々の雑巾がけなどの清掃や点呼など、軍隊並みに厳しかったそうです。御手洗いも寝室から遠いところにしかなく、建物全体が薄暗かったので怪談の類が絶えず、「兵隊のお化けをみた」という人もいたとか。
重ねて申しますが、今回は特別に許可を頂いて見学させてもらったので、學校の敷地などに無断で立ち入ることはできません。
現愛生会病院の敷地内にあった覆馬場も先年解体され、駐車場となりました。残念。
愛生会病院の覆馬場
▼現在の様子
跡形もありません。
輜重兵第八聯隊
輜重兵第八大隊として発足し、後に聯隊に昇格しました。
▼昭和23年頃の輜重兵第八聯隊
▼平成28年の兵営跡地
大半は工場か住宅地になっていますが、施設の一部が確認できます。
▼周囲の畑です。
▼二棟並んでいます。
長さは半分ほどになっています。
向こう側に入口があると思うのですが、雪で埋もれていて確認できませんでした。
輜重部隊ですから倉庫として使われたものと思います。実際に、被服庫として利用されていたという証言があります。この他にも(株)タムロンの弘前工場内には軍隊時代の水槽などの施設が残っているようです。
歩兵第三十一聯隊
桔梗野には歩兵第三十一聯隊の兵営がありました。詳しい時期は不明ですが、昭和十年までに火災により歩兵第五十二聯隊跡地に移転しています。
▼昭和23年頃の歩兵第三十一聯隊跡地
敷地西側に市営住宅が並んでいます。
(画像)歩兵第三十一聯隊正門
(Googleストリートビュー)現在の正門付近
少し前まで門柱が残っていたそうですが、撤去されてしまいました。一足遅かったようです。
(画像)聯隊本部
(画像)桜の咲いた営庭があった場所は現在
団地になっています。桜の木などは全て燃料にするために伐られてしまったそうです。
▼境界柵が一部残っています。
(画像)歩兵第三十一聯隊の機動演習時の写真
(画像)歩兵第三十一連隊 営庭ヨリ雪中演習場ト岩木山ヲ望ム
▼戦後に建てられた市営住宅です。
聯隊の建物の建材が使われました。
▼三十一聯隊の施設が移築、転用された茂森町集会所
この他、弘前にはこのように軍隊関係の施設が移築され利用されているという例を、証言などから知ることができます。弘前南高校柔道場や市内の中学校の剣道場、近所の建設会社倉庫などがそうらしいのですが、未確認です。調べれば相当数確認できると思いますが、今回の調査で確認できたのはここのみです。こういうものも早く調査しないとどんどん滅失していくでしょう。
<<D氏の証言>> 昭和6年生まれ 終戦時国民学校4年生
桔梗野のここいら一帯は歩兵第三十一聯隊の兵営があり、兵隊さんがたくさんいた。門の前でたむろしているのをよく見かけた。或る時、雷で建物が焼けて、建て直されるまでは部隊が中野の方に引っ越していった。三十一聯隊の前の道は広くなっているが、これは兵隊が四列縦隊で行進することができるようにするために広くしたものだ。軍都弘前は軍隊関係の施設がたくさんあった。憲兵が街中を巡邏しており、子供ながらおまわりさんより怖いと思った。青森空襲の時は、空が真っ赤に燃えていた。次に弘前がやられると皆言っていたが、幸いにも弘前は空襲されることはなかった。
歩兵第五十二聯隊/ 北部第十六部隊
歩兵第五十二聯隊は宇垣軍縮により、大正十四年五月に廃止されました。 一時期歩兵第三十一聯隊が転営していましたが、三十一聯隊の本隊が大陸へ移ってからは、北部第十六部隊が駐屯していました。現在敷地は弘前実業高校となっています。
▼昭和23年頃の歩兵第52聯隊跡地
▼現在(平成28年)
現存するものが赤、恐らくそうだと思われるものが橙色です。
(画像)歩兵第五十二聯隊正門
(Googlemapストリートビュー)現在の正門付近
▼弘前実業高校
高校の正門位置は聯隊時代とは異なります。
▼煉瓦造りの倉庫
個人宅にありますので、敷地内には勝手に立ち入らないようにしてください。
今回は許可を得て撮影させて頂きました。
写真を撮り忘れましたが、こちらの建物も遺構である可能性が高いと思います。
(Googlemapストリートビュー)兵営北側にある建物
(Googlemapストリートビュー)南側の建物
他にも周囲に古い木造倉庫などが多数ありますが、移築して利用されているものである可能性があります。
偕行社
弘前の偕行社は市の文化財に指定されており、観光客もたくさん訪れています。
▼現在工事中です。
戦後は幼稚園のお遊戯室として使われ、かつて将校達がダンスに興じたホールで園児たちが踊っていたようです。年内には工事が終わるという話ですから、こちらはまた次回訪れたいと思います。
弘前の戦跡を調査して思ったことは、色々ともったいないなあということです。折角空襲を受けずに戦後まで残っていた戦争文化財も、そのほとんどが失われているというのが残念でなりません。近年「戦争遺跡」の重要性が高まってきたにもかかわらず、最近まであったものも人知れず消滅しています。陸海軍関係の建物を残そうという運動もここ最近盛り上がってきたばかりなので、仕方のないことかもしれませんが、大変悔やまれます。
今回は分布調査が主でしたので、また弘前に行く機会があれば本格的な調査など行いたいです。また時間の都合で、現自衛隊駐屯地となっている第八師団の射撃場などは調査していません。それから、紹介したもの以外にも移築された施設があるとのことですが、現在も残っているかは不明です。もし当時のことなどについて知っており、情報など提供していただけると幸いです。また掲載している内容に関して誤りなどございましたら、ご指摘いただけますと幸いです。
ご意見等ございましたらメールかコメント欄にてお願い致します。
今回大変な御協力を頂きました皆様に重ねて御礼申し上げます。
誠にありがとうございました。
<<参考文献>>
・「新編弘前市史」編纂委員会(編) 『新編弘前市史. 資料編. 4. 近現代編1 』弘前市市長公室企画
課、一九九七年.。
・寺田金蔵/ 小野謙一(編)『第八師団戦史』北辰社、一九〇六年。