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京都大学戦争遺跡研究会(2017-)

 戦争遺跡研究会は、主に戦争の記憶を後世に継承するための活動に取り組んでいます。活動内容は、戦争体験者からの聞き取りや、「戦争遺跡」と呼ばれる明治~昭和までの戦争に関する遺構の調査研究などです。現在、各地の教育委員会や郷土史家、戦友会、有志の方々などのご協力を頂いて「戦争遺跡アーカイブ」を作成中です。本サイトでは我々の活動の一部を公開させて頂きます。ご質問ご意見はyuki0118(アットマーク)gmail.comまでお願いします。2016年以前の活動はこちら→http://senseki3.kyotolog.net/ ツイッター @sensenki3

横須賀海軍航空隊 貝島・夏島防空壕群/ 追浜神社

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横須賀海軍航空隊 貝島・夏島防空壕群/ 追浜神社

横須賀市追浜地区には、大正5年(1916)、横須賀海軍航空隊が開隊しました。主な任務は搭乗員の訓練・養成や戦技実験でしたが、昭和19年からは実戦配備となり、本土防空戦に奮闘しました。

▽入隊式を行う海軍予備学生(昭和18年)



▽1946/02/15(昭21)の横須賀航空基地(USA-M46-A-7-2-50)

米軍艦艇が洋上にみられます。

▽現在(平成29年)の横須賀航空基地付近

現在も空技廠時代の施設などは多数現存しています。



▽貝山緑地公園内にある「予科練発祥の地」碑文


▽貝山緑地から探索をはじめます

▽貝山の山肌にある燃料庫
 

▽このような「∩」形の施設が並んでいます。





▽現在も会社の倉庫として使用されています。


▽進駐軍によるものでしょうか
  

▽未完成の壕


▽こちらは浄化センター内にある貯油庫


▽緑地公園内にも壕が多数残っています。


▽航空機格納壕です


▽進駐軍によって書かれたものでしょうか


▽最深部には溝の蓋が残っていました。


▽扉の跡


▽こちらの壕は入口の鍵が開いています。


▽ちょっと入っていみます
  

▽緑地公園化されています


▽航空隊の殉職者などが祀られた「追浜神社」

社殿跡などはもう残っていません

▽「鎮魂之碑」


▽海軍航空発祥記念碑


▽これは航空隊の気象観測隊の施設跡です


▽貝島山頂から北側を望む

右側に夏島、奥に野島や八景島が見えます。

次に夏島方面に向かいたいと思います。

▽日産自動車工場付近にある烏帽子岩跡碑文

この辺りは昔海でしたが、ここには烏帽子岩と呼ばれる岩がありました。この岩は開発で消滅しましたが、石碑が建てられました。

▽明治憲法起草地記念碑

この碑文も工場設置に伴いこの地に移されました。
「伊藤博文らが明治憲法の起草をした夏島の別荘跡地に、大正15年(1926)11月、草案に加わった伊東巳代治、金子堅太郎らが発起人となり建立されました。昭和50年(1975)4月に200m離れた現在地に移されました。  碑の基石は、明治憲法全76条を示す76個の御影(みかげ)石からなり、縦横22尺2寸1分1厘(約6.7m)の大きさは、憲法発布の日、明治22年(1889)2月11日を表しています。」(横須賀市ホームページより)
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0130/g_info/l100004012.html

▽夏島貝塚に到着です


▽多数の壕口があり、テンションが上がります!


▽水槽です


▽気付かずにドブンと落ちてしまいました。

服がドブ臭くなり、テンションが急激に下がります。実測で150cmぐらいの深さだと思います。戦争体験者の方から、新兵教育で「よく真冬に水槽に入らされた」というのを聞いたことがありましたが、まさか自分が入ることになるとは…

▽壕口です


▽航空機用格納壕です





▽海軍の食器です


▽上部には壕が点在しています
    

3層にわたって壕が掘られ、内部は碁盤の目状になっています。



とても一日では全て見れません。
▽こちらは明治時代の砲台跡です

この他、「海軍 側点」と彫られた標柱などがありましたが、砲台の詳しい探索はまた次回にしたいと思います。

<<S氏の証言>> 昭和七年生まれ 男性 終戦時国民学校三年
 戦時中には街中に兵隊や憲兵がたくさんいた。航空隊の門の付近には兵隊がたくさんいた。家の近くの山の上には海軍の高射砲陣地があった。20人ぐらいの兵隊がいて、二門のすごい大砲があった。兵隊は銭湯に行くときも二列縦隊で行進していく。B29はサイパンやテニアンから来るときは富士山を目指してやってくるが、それが帰るときは三浦半島沿いに帰っていった。高射砲は勢いよく撃ちまくっていたが、少しも敵機を落とせず、高射砲弾の破片がもの凄い音をたてて家の屋根に落ちてきて、バリバリと瓦が割れた。横須賀の町は大きな空襲はなかったが、帰り際に余った爆弾を捨てていくことがあり、一度近くの山に落ちて窓ガラスが全部割れてしまった。幸い、遮光の為に貼っていた新聞紙のおかげで怪我をすることはなかった。
 昭和二十年には自宅で玉音放送を聞いたが、感度が良くないので陛下の言葉はよく聞こえなかった。父親は兵隊にとられて朝鮮半島の方に征っていた。もう死んだだろうと思っていたら、戦後になってしばらくして復員してきてびっくりした。母親に連れられて横浜に行ったときには、焼け出された人々や浮浪児がたくさんいて、道端で寝ていた。また、22,23年ごろまでは戦斗帽を被った傷痍軍人が物乞いをしていたのを見た。戦争は二度とすべきではない。
 

ご協力ありがとうございました。

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