和歌山県串本町にはかつて海軍航空隊の水上機基地がありました。
現在敷地は串本中学校や古座高等学校、和歌山県農林水産総合技術センターなどが建っています。
▼民生寮跡に残る地下指揮所
▼串本町の港
▼中学校脇に残る航空隊門柱
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▼かつて格納庫があった場所には和歌山県農林水産総合技術センターの水産試験場があります。
▼かつてスロープのあった突堤
現在は絶好の釣りスポットになっています。
▼山裾の壕跡は見当たりません。
▼中学校の裏山に地下壕の崩落した形跡が見られます。
施設図ではこのあたりに大規模な壕の入り口があったようです。
▼かつて兵舎の並んでいた中学校のグラウンド
▼神社脇にある忠魂碑
▼串本町植松地区には地下指揮所が残っています。
▼梯子が残っています。
▼空気孔には蓋がついていたのでしょうか。
<<A氏の証言>>昭和二十一年生まれ(女性)
母からよく海軍のことを聞いた。父は衛生兵として二度出征している。現在の古座高等学校のグラウンドに格納庫が並んでいた。中学校の理科の実験室のところにコンクリートの建物があってよく遊んでいた。「何だろうか。」とみんな不思議がっていたが、上に乗ったりして遊んだ。
塔石に家の田んぼがあり、敷地内に土饅頭みたいなものがあったが、どうやらそれが昔の高射砲陣地だったらしい。土の山は耕作の邪魔だったので、隣の田んぼの人と半分ずつ手分けして崩した。
<<H氏の証言>> 大正十二年生まれ(女性)
支那事変が始まったころは22、23歳ぐらいだった。昭和十五年頃に挺身隊で大阪の砲兵工廠に勤労奉仕に行った。串本から集団で行ったように思う。寮に住みこみで、九~十七時まで働いた。残業などはなかった。食事などはでたが、給料はなかったように思う。火薬のせいで皆、顔や手が真っ黒になっていた。砲弾に炸薬を詰める作業だったと思う。
昭和十六年頃に、海軍の航空隊が串本にきた。兵舎に入りきらない人は民家に分宿していた。戦争末期になってくると敵機がよくやってきて機銃掃射してきた。串本の町はちょうど潮岬の窪んだところにあるので、B29が爆弾を落としても陸には落ちずに、全部海に落ちていた。北から来たB29にも注意が必要で、他の都市を爆撃した残りの爆弾を串本に捨てて帰ることもあった。敵機を一度撃墜したことがあり、それが航空隊の裏の山に落ちた。敵が艦砲射撃に来たこともあり、西の方からもの凄い艦砲射撃を喰らって、みんな急いで防空壕の中に逃げた。
戦後、航空隊の建物などは何もなくなってしまった。地元には航空隊の人と結婚した人もいる。