第六師団 甘木西部第七十六部隊(高射砲第四聯隊第一中隊) 野戦高射砲第六四大隊 小倉野戦重砲第五聯隊 防空第二二聯隊 高射砲第百三十二聯隊 高射砲第一三六連隊 倉沢泰 中尉
大正十年 朝鮮全羅北道金帝生れ
倉沢氏は現在富の原保育園の理事長/園長をされている。また菊池飛行場の遺跡を保存する会でも精力的に活動されている。この度、ご本人からその半生を語って頂いた。
<<第六師団の高射砲部隊へ>>
昭和十六年五月、徴兵検査で堂々たる甲種合格。視力検査で通常の人間を遥かに超える視力を叩き出し測定不能。その際、担当の軍医から「あんたは人間じゃない」といわれる。白昼でも星が見えた。
昭和十七年一月、愈々入隊一週間前という時、懇意にしていたお隣の藤野さんのお父さん(陸軍中尉)が北支から帰ってきて、軍隊の話をしてくれた。そして釜山の親戚宅で一泊して、連絡船で熊本へ。熊本のいろは旅館で一泊して甘木に到着し、一月十日に、第六師団命令で甘木西部第七十六部隊(高射砲第四聯隊第一中隊)に配属。防空兵としての教育を受ける。中隊長は宮本中尉。
入隊して一週間後のこと、夜半に突然、班長から「おい貴様、中隊長がお呼びだ」と言われた。班長は中隊長から、初年兵を俺の部屋に連れてこいと命ぜられていた。
「お前なんかやらかしたんか。」
「ハイ、分かりません。」
「うーむ、とにかく行って来い。」
本当に何も心当たりがなかったため、これは相当絞られると思い、内心震えながら中隊長室に入った。この日は丁度中隊長が週番で兵舎に泊まっておられたのだ。
一礼して入室すると中隊長は意外な言葉をかけてきた。
「おまえ、一週間たつと少しは軍隊生活に慣れたか」
「ハイ!!慣れました!!」
「そんな大きな声を出さんでよい。」
「おまえ、幹部になる気はないか。」
「ハイ!」
「よし、それならしっかりやれ。この部屋は日中誰もおらんから、勉強に使うとよい。」
――呆気にとられて班に帰ると、班長が心配して待っていた。
「何て怒られたか。」
「ハイ、幹部候補生を受けるよう勧めて頂きました。」
「そりゃあ、お前、しっかり勉強せないかんぞ。」
▽昭和十七年甘木教育隊時代の倉沢氏(20歳)兵舎の前にて
この兵舎は残念ながら空襲で焼けてしまった。
翌日からは猛勉強の日々がはじまった。初年兵は自分の時間というものが無いので、入浴時間を利用した。皆がだらだらと服を脱いでゆっくりと風呂に浸かっている間、さっと着替えて烏の行水よろしく汗を流した後、すぐに着替えて、中隊長室で勉強。一秒たりと無駄にせぬよう心がけた。三月、聯隊長の査問終了後、適正に回答できなかった者がいたため、全員ビンタ。
同年四月、第七期兵科幹部候補生に合格。続いて、甲種幹部候補生にも合格。三か月の頑張りが報われた。同時に学力、適性検査の結果、測高機長を命ぜられる。
後で分かったことだが、中隊長の宮本中尉は藤野中尉の教え子だったそうだ。不思議な巡り合わせである。
五月には千葉県稲毛陸軍防空学校(後に高射学校に改名)に入学。在学中には、当時10歳の皇太子殿下の見学を受けた。十月には卒業し、原隊復帰後第二中隊付となる。将校勤務を命ぜられ、週番士官も務めた。見習い士官としての勤務は面白いもので、曹長よりも階級は下だが、いずれ上官になるので、曹長も丁寧に接してくる。また、この時の連隊長が島村少佐という人で、叔母の甥にあたる人で親戚だったので良くしていただいた。とうとう職業軍人になった。
<<本土防空任務と決死の陣地構築>>
昭和十八年七月、軍令陸甲第五九号により、復員並びに編成下令となり、野戦高射砲第六四大隊に転属。ニューギニアへ行くことになる。愈々戦地へ征けると思っていたが、国内の用地防衛にまわされることになり、小倉野戦重砲第五聯隊に転属。私だけが置いていかれて、とても悔しかった。ニューギニアに行った戦友たちは皆戦死してしまった。七百名の戦友、誰も帰ってこなかった。
一週間後、防空第二二聯隊に分遣され、足立山山頂の防空陣地構築に従事。足立山の由来は、京都から左遷された菅原道真が難路で足を痛め動けなくなり、この山の清水で足を洗ったところ、脚が再び動くようになったことから「足立山」と名付けられた。十五名の部隊員で運弾道路の造成からはじめ、携行した食料も一週間で底を尽き、以後は補給が来ないので、コーリャンや草や木の実、蛙などを食べて飢えを凌いだ。或る時、炊事当番の兵隊が「今日は鰻のかば焼きです!」と言って、かば焼きを出してきた。「へー今日は豪勢だな。」などと言いながら食べてみるが、どうも味気なくバサバサしている。問いただすと、当番兵が「申し訳ありません、実はこれは蛇なのです」と白状してきたが、食糧の無い中で苦労して作ってくれたものだったので、怒るに怒れず「うまかなー」と食べた。偽装等は工兵隊にやってもらったところもあったが、ほとんど自分たちで陣地構築を行った。いざ高射砲の部品が来ると、これも規格が合わず、別部隊と調整してやり繰りした。まさに南方第一線さながらの様相を呈していた。
実戦では八サンチ高射砲を使用した。これはべトンの陣地に据え付けて撃つもので、高度7千メートルを撃つ時には、仰角が四五度ぐらいになるので、装填にとても時間がかかり時間のロスが多かった。この九州北部の防空砲台には東京の丸の内とここにしかない自動装填式のもの凄い高射砲があったが、いずれも一発も撃たずに終戦を迎えた。
▽任官記念に撮った写真を見せて頂きました。
▽写真にも写っている軍刀の帯
尉官であることを示す青色をしている。
<<米潜水艦からの魚雷攻撃>>
昭和十八年十月、軍令陸甲第七四号により、編成改正第六中隊配属となる。足立山での決死の陣地構築が完了し、陣地を別部隊に引き渡し下山。戸畑名古屋陣地に転属。十二月、見習士官から、晴れて陸軍少尉に任官。叙正八位指揮小隊長に。除隊後、即召集。再び防空第二二聯隊へ。
昭和十九年三月、関門海峡にB29が飛来し、多数の機雷を投下。その後、通過中の船舶が多数爆破炎上する様を目撃。六月、軍令陸甲第四五号により、防空第二二聯隊を高射砲第一三二聯隊(慧八〇六二)に部隊再編改称。
この地を死に場所と定め、実家に毛髪と爪と遺書を送付する。が、直後に上官から帰郷を勧められる。「いえ、自分はもう家には帰らぬつもりであります」と答えたが、上官から「いかん!必ず帰れ」という「命令」を受けたので、しぶしぶ実家の金帝に帰ることにする。
▽戸畑兵舎の前で
戸畑陣地も空襲で焼けてしまいました。
門司と朝鮮の連絡船「金剛丸」に乗船。釜山を目指す。船内はごった返していて、乗客のほとんどは女子供や老人で、成人男性は数えるぐらいしかいなかった。船員から、壮年の者は他の乗客の面倒をみてくれと頼まれる。出航して一時間半後、米潜水艦に発見された。「八百メートル後方米潜水艦!」という艦内放送が流れた後、皆パニックになり船内は泣き叫ぶ人々で阿鼻叫喚の地獄絵図に。更に敵潜水艦が接近してきて五百米で魚雷戦に。金剛丸は神業で魚雷を回避、更に「米潜水艦三百メートル!」の放送。その途端、不思議なことにこれまで泣き叫ぶ人々で騒がしかった船内がしんと静まり返った。息遣いさえ聞こえない。ボカンとやられるのを今か今かと待ち構えたが、遂に敵は魚雷を発射しなかった。沈黙を破るように「米潜水艦、本艦より遠ざかった!」の放送。皆くたーとなった。無事に釜山に上陸。まさに九死に一生をえた。
▽関釜連絡船 金剛丸
金剛丸は昭和二十年の五月二十七日に触雷座礁して終戦を迎える。
<<対空戦闘とB29迎撃>>
昭和十九年六月一六日、成都、重慶より飛来せるB29を迎撃。80機のB29が四機編隊で八幡上空に侵入。一番機が来るや、小月飛行場より迎撃機が出動。二機を撃墜。壮烈なる空中戦を見つつ、高射砲も一斉に火を噴く。この日、全体で七機を撃墜。続く七月八日、八月十日にも対空戦闘。ハリネズミのようなB29の防御砲火にさしもの迎撃戦闘隊もバラバラと墜とされるものあり。八月二〇日にも対空戦闘。敵は戦法を変え、単機で突入してくる。戦闘時間が長くなり、慎重に狙いを定めてB29数機を撃墜。
▽九九式八糎高射砲
▽足立山の高射砲陣地跡
▽測高器
倉沢氏は真ん中で測高器を覗いている観測手だった。奥は計算機。
倉沢氏は、九州全軍の参加する実弾演習にて測高部門で二年連続優勝。
▽測高器を覗いた状態
▽このように観測手がΛの頂点に敵機を捉え、その時の数値を読み取る。
普通はこの点々が「・・・」と一列に並んでいるように見えるが、それではダメ。
相当目の良い者でないと、Λには見えない。大体200人に一人くらいだ。
方角を6400に分け、高度、速度、角度、気象条件に合わせて信管を調整する。観測手は高射砲が命中するかどうかを左右する最重要配置である。
▽火を吐いて墜落するB29
一万メートル上空で撃墜したうちの一機が、火を吐きながらひらひらと墜ちていく。そのまま海面に激突するかと思ったが高度3千メートル付近で風に煽られたのか、突然機首を上げて住宅地付近に墜落、爆発炎上した。支那から来るB29は行き帰りの長距離飛行なので、相当量の燃料を積んでいたのだ。「これはいけない」と即座に現場に急行したが、濛々たる黒煙が上がり、地元警防団なども集まってきたが、手の付けられない状況。聞けば、防空壕直下に墜落とのこと。悔やんでも悔やみきれぬ苦々しさ。鎮火後に黒焦げ遺体が掘り出された。戦争のむごたらしさを痛感。この時の発射弾数九千発。
撃墜した米兵捕虜を呉で尋問する際に、中隊付の米国帰りの二世少尉が通訳に呼ばれ、明け方に蒼い顔をして帰ってきた。無言で何も語らず。この時、日本はもうダメなのかと察する。実際、戦争末期になると、八幡製鉄所内で石炭拾いの労働に従事していた捕虜の連合軍兵士が、B29を見てワーと万歳を叫んでいた。もう駄目だろうという気がして悔しかった。
昭和十九年十月二十五日再び対空戦闘。十一月、特別志願将校に合格採用される。十二月十日対空戦闘。十二月末の猛吹雪の日、中隊長が初年兵に精神訓を授けている最中の十二時ごろ、衛兵士官の急報。「下がっています!」と、兵員が首つりの報告。倉庫の間の狭いところで吊ったというが、「あんなところでどうやって括るんだ」と、皆疑心暗鬼。見に行くと、膝をついた形で確かにこと切れていた。蘇生を試みるも生き返らず。部隊で点呼をとるも異常なし。これはよその兵隊ではないか、と北九州全軍に報告するも「異常なし」。二度三度詳細に調査する。首実検を行うと、第三班の班長が「うちの班です」とでてきた。「バカモノー!!何故最初に言わんか!」と叱責。聯隊長に報告すると、「そんな恥さらし物は海に捨て置け」とのこと。不憫に思い、中隊葬で荼毘に付して遺骨と遺品を遺族に送付。その際、司祭の資格をもつという見習士官が場をとり仕切る。しかし遺族から連絡はなし。
昭和二十年一月、中隊長教育のために第一次丙種学生として千葉陸軍高射学校銚子分教所に入校。犬吠岬陣地に派遣され、名物の落花生を山ほど食べ、切り餅の雑煮を食べる。在学中、関東方面を空襲する敵編隊を目撃、夜半東京方面の空が真っ赤になっていた。
東海道線は名古屋以東は在来線が運転不能でダイヤがめちゃくちゃ。時刻表が当てにならなかった。移動のために中央線に乗りこむが超満員で車輛の中に入れず、極寒の中をデッキで新宿駅に向かう。駅を降りたが、見渡す限りの焼野原で、どちらがどこかまるで分からない。将校行李を担いで焼け跡を彷徨ったことが忘れられぬ。
我が方の迎撃戦闘も見るに耐えるもので、十数機が上がるが無傷の機体は狙わず、エンジンから煙を吐いて到底サイパンまで帰られぬような機体に体当たりを行い撃墜。なんたることか。
一月に原隊に復帰した。十九年末に、本土決戦に備え弾丸を温存するよう命令がくる。碌に弾が撃てない。防空兵として敵機を撃てないことほど情けないことはない。敵機は超低空で悠々と飛んでいくが、こちらは何もできない。
三月二十七日、二十九日対空戦闘。墜落機から落下傘降下した米兵の一人は、福岡県の遠賀川に着水。地元住民に手厚い看護を受け、憲兵隊に連行され捕虜となった。この兵隊は、戦後七〇年の節目に、手当てをしてくれた医者に会う為に訪日した。私は丁度会えなかったが、その話を聞いてなんともいえない気持ちになった。
<<小林での陣地構築と終戦>>
五月十三日、陸亜機密第百七十九号により、高射砲第一三六連隊(彗八〇〇一)に転属。渡辺隊に編入。本土決戦準備の為、先遣隊として本隊より三日先に宮崎県小林に向かう。小倉を出て日豊線乗車中、艦載機の波状攻撃で命からがら大分中津までたどり着くが駅長の判断で列車の運行が止めになった。しかし、軍の命令だとして延岡までこれを走らせる。真夜中に、もうここまでと列車を止められ途方に暮れる。しかしなんとか本隊到着前までに着かねばならない。駅前を探し回ってトラックを見つけたが、その運転手がいない。それをなんとか見つけたが、運転手曰く、もう道が通れないとのこと。いくら頼んでも無理だった。どうにもならないと半ばあきらめかけて駅前に戻ると、何やら三十人前後の兵隊が屯していた。「おい、君らはどこから来たのか」と問えば、「千葉鉄道学校です」との答え。願ってもない話だった。
「機関車は動かせるか。」
「ハイ。」
「どこまでいくのか。」
「都城です。明日までに行かねばなりません。我々も困っているのです。」
「よし!列車をなんとかするから、君らが動かせ。」
そこで、拳銃を抜いて駅長室に突入。駅長に直談判するも「ダメだ」と断られ、強制的に接収。
鉄道学校生徒たちの助けもあって、夜も明けぬうちに延岡駅を出発。しかし、日が昇り始めるや、忽ちグラマンが雲霞の如く殺到してきて、銃爆撃を加えてきた。車輛は穴だらけになるも、なんとか都城に辿りついた。その後すぐに財部の聯隊司令部に出頭。しかし参謀は「お前らの来ることなど知らん」という。最早この時期には命令伝達すら満足になされていなかった。「では勝手にやります」と言って、宿舎を照林寺に決め、木場の北方の二股の道に目途をつけ、陣地を構築することにした。
現地を行ってみるとそこは一面大豆畑で、近くの古い家の中から老夫婦が出てきた。曰く、「隊長さん、ここはどうか見逃してください。私たちの三人の子供は皆兵隊にとられて、その内の一人は既に白木の箱で還ってきました。他の二人からも便りがありませんが、いずれ帰ってくるはず。どうか後生ですからここだけは見逃してください」と拝み倒す。哀れに思うが、軍の作戦上やむなしと強制没収。鉄条網を張って陣地を確保。その後、穴を掘って砲を据えて、それに竹を被せて藁をのせて、土を被せてから唐芋を植えた。この他、横穴三本(兵員室、兵器室、弾薬庫)に給水井戸を一本。
六月、陸軍中尉に進級。中隊長補佐。直後に沖縄より飛来せるP51戦闘機の機銃掃射を受ける。ハッと気づいて横っ飛びしたが、ほんの足先を機銃弾が掠めた。搭乗員の顔が見えたが、我が物顔で笑っていた。なんという悔しさ。運悪く小林駅にて清掃奉仕中の女学生の集団が攻撃を受け、女学生十五名が亡くなった。何というむごい話。
七月に陣地構築が終了し、参謀を呼んで陣地を見せたが、「陣地はどこだ」という。「今立っておられるそこが陣地です」というと、とても驚いていた。我々は見事に陣地を隠蔽したと思っていたが、戦後米軍の資料などをみると、きちんと記載してあった。恐らく偵察かスパイでも使って知っていたのだと思う。参謀によれば「マッチ箱ぐらいの新型爆弾が出来て、六発の重爆で米本土を空襲するから、この戦争は必ず勝つ」ということだった。その言葉に激励され、ますます任務に邁進。奮励努力する。八月十五日の玉音放送も、天皇陛下直々に励ましてくれるのか、と思っていた。終戦を知ったのは夕方だった。本土防衛に満州から来ていた国兵団の兵士数万には、輸送網の崩壊した日本の地で補給もなく、飢えに苦しみながら、バタバタと襤褸切れのようになって死んでいった。飯盒を下げて家々を回るが、到底全員分の食料などあるはずもない。火葬場は日に何十人も運ばれてくる死体でパンク状態だった。なんというむごい有様。武器弾薬の投棄処理中、更に事故死者が…
残務処理の後九月に帰郷することに。軍犬、軍馬との別れは悲し。九月二〇日夜、熊本駅で降りるが一面の焼け跡。ホームで迷っていたら、駅の助役が事務所に泊めてくれ、翌日目的地まで案内してくれた。聞けば、親父の叔父にあたる人であった。その後、引き揚げてきた家族と再会。社宅に入るか、入植するか迷い、父と相談し、入植を決意。入植先の菊池へ行ってみると、草はボーボーで食べるものもない。医務室の建物が空いたのでそこに五世帯近く入っていた。すると、進駐軍が毎日監視に来た。何度も来るので、「お前らは何がしたいんだ。」と問いただすと、「旧軍出身者がこれだけ一か所にいるのは何か企んでいるにちがいない」とのこと。確かに入植者各世帯に一人~三人は復員兵がいるので五世帯もよればそれぐらいの人数にはなる。進駐軍はやはり反乱を恐れていたのか。
▽菊水開拓団の方々
中央、国防色の戦斗帽に陸軍外套姿の人物が倉沢氏
私の畑の隣に、同い年ぐらいの若者がいて、或る時話してみると、敵機数十機を撃墜した撃墜王であった。親しくなったが、ある日パタリと姿を見せなくなった。心配していたが、後日その人の弟という人が訪ねてきて、航空自衛隊に入ったということが分かった。
昭和五〇年頃、街の集会所に教会の牧師が来た。私はそんなものには全然興味がなく、いつもいかなかったが、「今日はアメリカ人ではなく日本人の牧師がくるらしい」と村の者があまりにもしつこいので渋々行くと、正座して待っている者がいる。「教官殿、お久しぶりです。私を覚えておいでですか」とのこと。「いや、知らん。誰かねあんたは。」と話すと、昭和十九年の十二月に中隊葬をやった時の司祭をした少尉だった。こちらは教育で士官が入れ替り立ち替りであるから、すぐに気付かなかったが、向こうはすぐに分かったのだという。
他にも銚子の高射学校で一緒だった戦友も訪ねてきて、熊本駅前で食事などして別れたが、後日警察がきて詐欺師だということが分かった。あれだけ立派で優秀な人間がそんなことをするとは、と落胆すること甚だし。これも時代のせいだろうか。
▽倉沢泰氏御近影
落下傘降下した米兵のパラシュートコードを手にしている。
倉沢氏はその後、並々ならぬ苦労を重ね開拓を進めた後、皆の懇願で開拓民の子供たちを預かる保育所を経営しはじめられました。現在もその辣腕ぶりを発揮し、地域の名士として活動されています。
▽菊池教育隊門柱と倉沢氏
倉沢氏には自ら歩いて菊池飛行場をご案内頂きました。驚嘆すべき健脚ぶり。
いつまでも健康で達者になさって下さい。
<<保存会の活動について>>
Q:保存会が発足に至った経緯を教えて頂けますか。
A:我々が菊水開拓団でこの地に入植した当初は、軍の井戸に滑車をつけて水を引いていたが、平成になって市が上水道を整備したので、そちらを使うように市が勧めてきた。けれども皆井戸水の方が良いと言ってなかなかそちらに移らなかったので、上下水道の整備を条件にようやく上水道を使用するようになった。それに伴い、これまで使っていた菊池飛行場の給水塔が不要になって、皆が「もう壊してしまおう」と言っていた。けれども、私達は、非常に貴重な歴史遺産なので、これを保存しようと市に働きかけた。戦時には少年飛行兵たちの、戦後には開拓者たちの喉を潤したこのタンクを見れば、戦争の恐ろしい姿や平和の有り難さがよく分かる。これを永遠に残していくべきだ。これをつぶして単に看板やモニュメントなんかを建てても何の意味もない。先の熊本地震で一部壁が剥離するなど損傷があり、市に補修をお願いしたが、菊池市からは「それは個人の所有物なので自分で補修されたし」といわれた。泗水町の公民館が新しくできて、元々の建物が空いたので、そこにミュージアムを作った。戦争の記憶の継承という事業はなかなか難しい課題だが、今後も取り組んでいきたい。
倉沢泰様、並びに皆様方
大変お忙しい中、ご協力いただき誠にありがとうございました。