松山市興居島は忽那諸島で二番目に大きい有人島で、面積8.49平方キロメートル、人口は1127人。
「瀬戸内海国立公園の中にあり、温暖な気候に恵まれ、周りの海は魚介類も豊富。果実の島とも呼ばれるように、ミカンの開花期には、全島花一色になる。忽那水軍の島だった歴史もあり、毎年10月6日の秋祭りに演じられる「船踊り」は県指定の無形文化財で、毎年4月20・21日の2日間にわたる「島四国」という八十八ヵ所巡りも有名である。」(松山離島振興協会ウェブサイトより)
▽高浜港
ただ、今回の興居島訪問は「船踊り」や「島四国」ではありません。興居島南端の御手洗にある伊号三十三潜水艦の慰霊碑にお参りに行きます。
きっかけは吉村昭の『総員起シ』(文藝春秋、昭和四十七年)でした。
▽浮揚後、日立造船因島工場ドック内に置かれた伊33(昭和28年)
松山市駅から伊予鉄で高浜まで(410円)行き、興居島泊港行きの船に乗り込みます。普段阪急や京阪のような貧民鉄道にしか乗らないので、少し割高に感じます。河原町から梅田まで行ってお釣りがくるやんけ、とか思ったり。藁
興居島行きの船の場合、乗船券は船内で買えるので券売所に並ぶ必要はありません。
興居島までは190円。煙草を一本吸っている間に島に着きました。
▽連絡船から興居島を望む
あいにくの曇り空
泊港から南西に続く道を海岸沿いに進んでいきます。
▽御手洗の集落
集落へ向かう道の山側に慰霊碑があります。
▽「伊号第三十三潜水艦慰霊碑」
「伊號第三拾三潜水艦慰霊碑
昭和拾九年六月拾参日本艦は太平洋戦場に出撃の為め
呉出港伊豫灘で急速潜航運動中不慮の災禍に會ひ由利
島南方水深六拾壹米の海底に沈み百余の英霊は艦と共
に九年の長い間海底で悲しみの日を過されたが呉市北
星舩舶工業株式會社の犠牲的努力と地元有志の協力を
得て此地点沖で浮揚作業の効成り慰霊の祭典を営み多
数遺家族の方々と無言の對面が出来たことを記念し其
霊を慰める為め此処に記念の碑を貽す
昭和貳拾八年六月二十一日
愛媛縣知事 久松定武
建立者呉市北星舩舶工業株式會社長 又場常夫
建立協力者愛媛縣遺族會々長 久松定武
愛媛縣興居島村々長 三喜長太郎
愛櫻會々長 曾禰章」
<<伊号第三十三潜水艦について>>
伊号第三十三潜水艦は昭和十七年六月十日、神戸三菱造船所で竣工された伊一五型の潜水艦で、基準排水量二、一九八屯、全長一〇八・七米、速力二三・六浬(水中速力八浬)、備砲一四糎砲一門、五三糎魚雷発射管六門、魚雷数一七、偵察機一機搭載可能。
完成後に第六艦隊第一潜水艦隊に編入され、約二ヵ月間の単独訓練後、八月十五日に呉を出発し、ソロモン諸島方面の作戦に従事した。
九月十六日、トラック泊地にて六番発射管維持針装置等の故障個所点検、修理のために特設工作艦「浦上丸」に横付け。波のうねりを緩和し故障修理を容易にするため、注水して艦尾を下げようとしたところ、艦尾の沈下によって繋留索が切断。開放されたままであった後甲板のハッチから海水が浸入。仰角三十度の傾斜で約二分後に艦影は水没。この事故により航海長以下三十三名が殉職した。第四艦隊主導の下、第四港務部や艦政本部、各地の海軍工廠から人員が集められ、救難、浮揚作業に従事。
昭和十八年一月二十九日午後五時、完全浮揚。その後呉に回航され、昭和十九年五月末まで呉海軍工廠にて修理工事を受け、連合艦隊に引き渡された。
昭和十九年六月十三日、第一一潜水戦隊編入前の単独訓練中に伊予灘由利島付近にて遭難。八時四分頃、急速潜航の際に右舷給気筒より浸水、救助された二名以外、艦長以下の一〇二名が殉職。原因は、呉海軍工廠の際に木材片が給気筒に入り込んだための浸水と、潜航時間短縮を急ぐあまりに給気筒の閉鎖確認を怠ったためだと言われている。
昭和二八年二月、北星船舶工業株式会社によって引き揚げ作業が行われた。五月二一日に水面近くまで浮揚させ、六月二二日、興居島御手洗浜にて浮揚作業が完了。
その後、日立造船因島工場で解体、その際に元海軍技術士官だった3名が前部魚雷発射室においてガス中毒で亡くなるという事故が発生。
▽因島ドック内の伊三十三
▽艦長の和田少佐が殉職された指令室
▽全部魚雷発射管室
悪性メタンガス中毒により三名の作業員が亡くなった。
▽発見された遺書
空気の残っていた全部兵員室内より発見されたもの
浮揚時の様子(『総員起シ』136頁より、ご参考までに)
「 突然、海水の一箇所がかすかに割れた。艦首の先端が海面に突き出たのだ。それは、遠慮がちに海水を押し分けるような静かな動きだった。
呻き声とも歓声ともつかぬ声が、又場〔北西船舶経営者〕の体を押し包んできた。不意にかれの咽喉に激しくつきあげてくるものがあった。かれの眼に光るものがにじみ出た。遺骨をおさめた巨大な棺が浮上してくる。深海に身を沈ませていた鉄の構造物が海面に姿を現した。それが自分たちの手で果たすことができたことに、かれは技術者としての歓びを感じた。
艦首が、徐々に海水を押しのけ浮上してくる。錆びた鉄だった。緑色や白色のものがついているのは、雑貝の類なのか。
「潜望鏡だ」
という叫び声がした。
艦首から五十メートルほど後方の海面に棒状のものが突き出てきていた。その先端が閃くように光った。それは楕円形のレンズの輝きだった。
夜間潜望鏡だ、とかれは思った。かれは、ふと或る情景を思い描いた。艦内は沈没とともに電源も切れて電動式の昼間潜望鏡その機能をうしなったはずだ。艦の最上部にある司令塔では、手動式の夜間潜望鏡をあげて艦の上方をさぐったのだろう。
が、潜望鏡はなにもとらえることができず、空しく海水のみを映し出したのだろう。
艦首は、浮揚タンク二個を両舷に抱え込むようにして少しずつ浮上し、さらにその後から二個のタンクが姿をあらわした。
午前八時、艦首部分約四メートルが二十五度の角度で浮上した。
又場は、小舟を出して艦首に近づいた。すでに偵察機を射出するカタパルトの軌条も露出している。艦首の両脇に突き出ている潜舵も、海水から離れている。その穴に動くものがあった。それはひしめきあったアナゴだった。
深海に沈没していたためか、海草も貝の付着もない。
かれは、潜望鏡に舟を近づかせた。表面はクロームの色がそのまま残されていて腐蝕の跡はない。レンズは輝いていた。そのまわりには藤壺が附着していて、潜望鏡は楕円形の鏡面をもった螺鈿細工のようにみえた。赤錆びた艦首部分とは異って、九年間沈没していたものとは思えぬほど、その潜望鏡は妖しいほど美しいものに見えた。
かれの経営する北星船舶にとって、その艦体はスクラップして利益を回収しなければならぬ鉄塊であった。が、眼前に一部浮上した「伊号第三三潜水艦」は、百体近くの遺骨をおさめた棺であった。かれには、まずそれらの遺骨と遺品を艦内から収容し、援護局の手を介して遺族に手渡さなければならぬ義務があった。
海上には厳粛な空気がひろがっていた。
潜水班長が、花束を手に夜間潜望鏡にくくりつけた。潜望鏡は、花の色彩に装われて、ひときわ美しいものにみえた。
正午近く愛媛県知事一行がやってきて、艦首部で花束をささげ、又場が祭主となって作業船の上に設けられた仮の祭壇で簡素な慰霊祭が行われた。僧の読経が海上を流れ、いつの間にか姿をあらわした遺族が浮上した艦首部に眼を据えながら肩を波打たせて泣いていた。 」
(写真)九年ぶりに姿をみせた伊33の司令塔。1潜望鏡・2艦橋・3聴音機・4二連機銃(毎日新聞社フォトバンク)
(写真)司祭による慰霊(毎日新聞社フォトバンク)
▽浮揚作業中の北星船舶作業員
▽献花する遺族
前部兵員室は、空気が残っていたため遺体の中には、ほとんど生前のままの状態を保ったものがありました。ネット上にも何点かあげられています。これらの遺体は外気に触れた途端に腐敗がはじまったため、遺族には火葬した上で引き渡されました。また、乗員の遺書も発見されており、沈没後、10時間前後は乗員が生存していたということが分かります。遺書からは敵と対峙せずに生を終える者たちの無念さが伝わってきます。
「電動機室の水枕より発見された遺書」(『総員起シ』より、ご参考までに)
一六四五、大久保分隊士号令ノ下ニ皇居遥拝、君ガ代、万歳三唱。
一七三〇大久保中尉以下三十一名元気旺盛、全部遮水に従事セリ。
一八〇〇、総員元気ナリ。総テヲツクシテ今ハタダ時機ヲ待ツノミ。
ダレ一人トシテ淋シキ顔ヲスル者ナク、オ互イニ最後ヲ語リ続ケル。
午後三時すぎ記す。死に直面して何と落ち着いたものだ。冗談も飛ぶ、もう総員起しは永久
になくなつたね。
母上よ、悲しんではならぬ。それが心配だ。光さん、がんばつたがだめだつた。
妹よ つひに会へなくなつたね。清く生きて下さい。
気圧が高くなる。息が苦しい。死とはこんなものか。みなさんさよなら。
H一機曹
小生在世中は女との関係無之。為念。
H二衛曹
妻に残す。
我々の生活もこれで終つた。お前には誠に申訳がない。この結婚は早過ぎた。お前は自分で
思ふことをやつてくれ。
O上機曹
いよいよ苦しい 二十一時十五分
不明
▽御手洗の集落
▽集落の方にお話を伺うことができました。
<<A氏の証言>> 昭和九年生まれ 男性 泊国民学校
昭和十九年、御手洗に陸軍の兵隊が二〇〇名ほどきて、山の上で工事を始めた。高射砲陣地を造るということだった。二〇年の夏に陣地が完成して、高射砲や探照灯を港に揚陸して、さあ後は据えるだけだとなった時に終戦になった。陣地は今でもあると思う。
昭和二〇年の終戦の年の春だったか、上空で日米の航空機が空中戦をやって、防空壕から「うわー」とみていた。黒煙を吐いてグオーと墜ちていく飛行機などをみた。
戦後、作業員が御手洗にきて、由利沖で潜水艦の浮揚作業を行っていた。大きなタンクをワイヤーで通して、クレーンで巻き上げていた。浜の沖の方で潜水艦が浮上して、浜に繋留された。村のものは近づかないように言われた。潜水艦の船体は錆で真っ赤っかだった。その後、しばらく放置されていた。村のものたちにも見学に開放されて、私も中に入ったが、内部も赤錆だらけで、機械などは朽ち果てて当然ダメになっていた。
六月十三日には慰霊碑の前で慰霊祭をやっている。二,三年前までは遺族の方も来ていたが、高齢のため来られなくなり、現在は村の者たちだけで慰霊を行っている。私らが死ぬまでは続けるつもりだ。ただ、この村に若い者が少なく高齢者ばかりになってしまったので、いつまで続けられるかわからない。
▽浮揚作業中の伊33
▽特産の天草
▽揚陸された高射砲や探照灯の置かれていた砂州
かつては大きな屋敷があり、戦中に軍に接収され、そこに武器弾薬が保管されていたそうですが、戦後に火事で焼けてしまいました。
▽伊予小富士
▽伊三十三の係留されていた箇所
現在、お地蔵様のある辺りです。
▽浮揚作業後の伊33
両舷にフロートがついています。
▽伊33艦橋
<<A氏の証言>> 昭和十三年生まれ 女性 松山市
潜水艦の死者は、戦後十三年が経っていたが、七十名ほどは骨になっていたが、十名前後はまだ死んだときのままのようで、村の近くのアカトロ(アカドロ?)というところで火葬した、と聞いた。
<<B氏の証言>> 昭和六年生まれ 男性 泊国民学校
戦時中は御手洗に兵隊がようけおった。公民館を兵舎に使っていた。今はMさんという方が倉庫に使っている。兵隊は高射砲兵だと言っていた。山の上に穴を掘って、槌で中を叩いて固めていた。ここいらは土質が固いので、コンクリートは使わなかったそうだ。
ある時、沖に友人の石炭船が停泊していたので、丸木舟で遊びにいったところ、艦載機から機銃掃射を食らった。バババッバババッと凄い音で低空から撃ち込んできた。友人と急いで海に飛び込んで船べりに掴まっていたが、しつこく攻撃してきた。敵機が来るときは反対側に逃げて、通り越したらまた反対に逃げるというのを何度もやっていると、相当な弾を撃ちまくった後に引上げていった。この辺は毎日のように敵機が飛んできていた。爆撃機の編隊もよく通っていた。また、山で作業していると、また艦載機が低空で漁船を撃ちまくっていた。白い水しぶきがブシュブシュッと上がっていた。別の折には馬場へ船で行く途中に敵機に発見されて、高高度からグオーッと急降下してきて、急いで岩陰に船を寄せて陸に逃げた。幸い弾は当たらなかった。戦争の時はこんなことばっかりやった。
▽兵舎として使用されていた元公民館
中を見せてもらいたかったのですが、家主の方が不在でした。
将校が宿泊していたようです。
▽さようなら興居島
皆様、ご協力ありがとうございました。
尚、写真はネット上で公開されているものを使用しましたが、問題があれば削除します。